8月はご先祖さま、鎮守さまなどとして道草、回り道をしてしまった。里山とか自然環境などと書きながら、ムラの成り立ちの基本を考慮したつもりである。
これまで書き続けてきた
「ハチロッポ(八郎場)」と「シッドゥジマ(新道島)」のことも、しばらく休んでしまったので、書きつなぐ手がかりを見失っていたのである。
ここで、ムラの基本を思い出して、新道島・八郎場にも 山 ≠手がかりに考えることにする。
八郎場も新道島も、魚野川が裾を流れる魚沼丘陵崖下の狭い土地にへばり付いたムラである。 (
江戸時代前期の新道島村旧地跡 )

繰り返し書くのだが、この立地に、江戸時代の115石(
天和検地)、おそらく母屋で11〜12軒くらいの百姓の村が成立していたとは、考え難いことである。
前は魚野川で、背後の丘陵地は新道島村ではなかった。土地が狭くて、しかもムラの地付き山を持たないのでは、田畑を基盤にする百姓のムラには見えないことになる。
土地にたよらない経済基盤を持った、特殊の職能で中世社会を引き継いだムラかと想像してみたが、田んぼ7町歩と畑8町歩での115石は、やはり土地利用を基盤とするムラになる。
『 堀之内町史 』によると、土地の面積生産力から評価した 地高 ≠ニ、白布・青苧・漆などの諸産物と、山手・野手高を加算したものが「 村高 」として定められ、その基は慶長年間に定まったと思われるとしている。
この村高に白布・青苧・漆の高がない村には、田戸・和長島・徳田・下新田・新道島の村々をあげて、慶長以後に成立した「 新田村 」になるとしている。たしかにこれらの村々は「 新田村 」の気配にもあるが、ムラの地付きの山を持たない、川辺の平地のムラである。白布・青苧・漆などは、主として里山に産する原料素材によるものであるから、地付きの里山を持たないムラでは、ムラの産物にとり上げるには難しいのである。地付きの山をもたない地域が、開発では後発となって新田村と云うことになろうか。
ムラが安定的な基盤をもって、早くから人々の定着をみている「 本田村 」には、地付きの里山が必須であって、その山地から得られる諸産物によってムラの暮らしが完結していたと考えられよう。そこに、ムラと山とのかかわりの意味が見えてくる。

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