中世戦乱の時代が終わると、村は江戸時代の安定した世相を迎えるなかで、開発の勢いが伸びる環境にあった。近世初頭は新田開発の時代とされ、村高が大きく増加していた。そして開発の主体は田んぼであった。
この趨勢から勘案するなら、中世の古村は水田比率がもっと低く、そして、畑地のもつ意味あいが高かったと推察することになる。
江戸時代前期、魚沼丘陵山麓の堀之内や川口地域では、村ムラの田畑比はおおむね
60:40をしめし、田んぼが多いとみてきた。ムラの暮らしが安定して、自己完結するには里山を持ち、生産力の高い田んぼと、それを補完する畑地の割合が、ほぼこの程度のことであったと思えるのである。もちろんムラの立地や、村建ての事情などで一様でないことは当然としても、ほぼ平均的な目安としての比率である。
田畑比だけで追ってゆくなら、畑地率の高めの村は中世的な構造を抱えて、
近世社会にはやや不利な村と云えそうになる。田んぼを拓くには、まず水利の確保が前提となり、新田開発は多く水利開発の事業であった。
このようにみて、畑地比率の高い新道島村は、
水利の開発が遅れている中世的な村の構造が顕わとなっている。

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