関矢孫左衛門が学んだ相澤南城の「三餘堂弟子籍」には、広く魚沼各地の村々からの入門者の名も見出すことになる。芋川 小林熊五郎、今泉 山本貞太郎、虫野村 桑原伴吉、須原 目黒武四郎などは今日の魚沼市の区域の人たちである。
並柳で関矢氏を継いだ忠靖が孫左衛門である。他にも並柳に関矢氏を名乗って、徳左衛門、慶次郎、太一郎、台三郎とみえるから、これらの人たちが、必ずしも村の庄屋クラスの有力農民ばかりに限られているとも思えない。
四日町 大和忰田中菅丸、堀之内在稲倉 宝蔵寺快稚などは神官僧侶である。このようになるとムラの学問は、点にとどまらず、面への広がりにも及ばんとしていると知ることになる。寺子屋を裾野に、まさに草莽の学問の広まりである。
三餘堂の学風はどんなものか。折衷学とのことであるが、それがどんなことか三郎次には理解のおよばないことになる。が、江戸時代に広まる儒学漢学の分野なのであろうか。
それでも
蔵書目録からみると、漢籍が圧倒的であるなかに、賀茂真淵の「祝詞考」、本居宣長の「直昆霊」とか、平田篤胤の「霊能真柱」を確かめることになって、国学がみえて来る。頼山陽、松下見林、会沢正志などと国学に繋がるとおぼしき人たちの著籍も蔵されていた。

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