あの 天地人 ≠フ時代、魚沼の宇賀地や川口の近辺をおおった緊張のながれを、大まかに括ってみよう。
@ 越後の下克上の成立
まず越後守護の上杉房能と関東管領上杉顕定が、守護代の長尾為景に討たれて下克上が成立したのが「永正の乱」で、一国争乱の戦国時代のはじまりとなった。下克上を遂げた長尾為景は、府中にあって戦国大名へと一歩を踏み出すのであるが、その政権は上田と古志にも分立する長尾氏の同調にたよらねばならない不安定があった。
戦国時代の越後には、さまざまな勢力が分立し、反目と和合、離合集散を繰りかえしていたのであるが、魚沼の様相は、上田(
六日町)の長尾氏の去就に左右されることが大きかったのである。上田長尾は越後の関東口にあって、関東からの勢力と接触し、春日山との関係は必ずしも穏やかなものではなく、また、魚沼からは山一つをへだて栃尾の古志長尾の勢力との反目があって、魚沼の、とりわけ広瀬谷と宇賀地郷の事情を複雑なことにしていた。
この様子は『 堀之内町史 』編纂にかかわった長谷川勝義さんの一書に詳しい。
A 享禄・天文の乱、府中と上田の対立
府中長尾の不安定な事情を衝くかたちで享禄・天文の乱がおきた。上田と春日山が対立して、下倉山城などの攻防で魚沼が混乱に巻き込まれたのである。やがて春日山と上田の和が講じられて、婚姻関係が成立するなどでこの地域の平穏が復した。ところが天文17年(
1,548)、長尾景虎(
後に上杉謙信)が栃尾から春日山に移ると、上田の長尾政景はそれに反目して景虎と対立することになって、またも魚沼は両者の攻防の地となり混乱に陥ることになった。
天文20年(1,551)には、景虎自身の出陣を前にして上田の長尾政景は和を乞うて、春日山の景虎に降ることになった。上田が春日山に服すことで、越後国内の平定がみえたのである。
B 御舘の乱、魚沼出自の景勝が越後一国の掌握
天正6年(1,578)の御舘の乱、魚沼が再度混乱の地になるのは、春日山にあって、名実ともに越後国主の地位を築いた上杉謙信が卆したことによる。その跡目を巡って三郎景虎と喜平次景勝が争ったのであるが、景勝は上田長尾から上がって、謙信の養子となったのであるから、魚沼衆はこぞって景勝をに推すかと思えば、事情は単純ではなかった。
この争乱は、翌年に対立者の景虎の自害だけで収束とはならず、天正8年にも下倉山城や根小屋などでの攻防がつづいた。
C 上杉移封と越後一揆、中世魚沼の終焉
上杉を継いだ景勝が越後一国を掌握したあと、天下の情勢がおおきく動いて、景勝は豊臣秀吉に臣従することになる。そして慶長3年、秀吉によって会津移封を命じられて越後を離れる。このとき魚沼出自の多くの将士が景勝にしたがって在地魚沼を離れ、会津に移った。
慶長5年には、徳川家康が会津の上杉景勝征討の軍を起こし、また関西では石田三成の挙兵があると、会津上杉方の直江兼続によって、遺領越後での一揆が計られる。関ヶ原合戦をひかえての一揆騒動で、下倉山城攻めが大きな争乱となって、魚沼での混乱が広がった。
魚沼の戦国時代を大まかにとしながら、ブログの記述としてはずいぶんとくどくどしくなった。このような書き込みは三郎次の本意でないのに、分に過ぎたことにもふれてしまい、錯誤もあろうか。

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