穏やかな日がつづいて、野山に藤の花ふさがたれた。そして昨日・今日は田植の盛りとなっている。

その前の日、5月8日は旧のこよみに習ったいわゆる
シンガツヨウカ(
4月八日)であった。
この日はお釈迦様の誕生日で、甘茶かけの日である。三郎次も中山の菩提寺に参詣した。境内はいつもとかわらぬ静かさである。

幾年月と経た石の仏さまにご挨拶をするのだが、ここにも10.23地震被災のいたわしいお姿があった。

甘茶かけは、子どもたちや、お年より女衆のおまつりと思っていた。その子どもの時分にも詣でたことがかったので、この日が初めてのことになる。


お厨子のなかの小さなお釈迦さま像は、天上天下唯我独尊としめされた誕生時のお姿であろうか。天上天下唯我独尊はよく知られた言葉であるが、その意味の深さには理解がおよばないまま、甘茶だけをおかけした。
この日の参拝は、田んぼの作業の最盛期とあってか、近所のお年より女衆たちだけで大勢とはならない。三郎次はただ一人の男衆で、いささか場違いかと感じて戸惑ったのである。でもみな知り合いのムラの衆であるから、招かれるままにお茶のご馳走をいただいた。
ご住持さまからは、まぜご飯のおこわや、つっかえし≠ニ云う伝統の郷土食を振舞われて、話がはずんだのである。
この日のおばあさんたちが語る昔のことには、三郎次は聞き耳を立てた。
シンガツヨウカ には、お寺で甘茶のお参りをしてから、野田の薬師さまに遊んだとか。なんでもこの日は山の神様の日だから、山に行ってはいけないとかで、野良仕事が休みになる日であったというのである。だから苗代での稲の種まきも、この日までには終わるようせねばならなかったとのことであった。

この日、三郎次が参詣したのは、菩提寺でいろいろと見聞したいことがあって、かねてご住持さまにお願いしていたのであった。
中山の
太白山林興庵は上田の雲洞庵末の禅宗寺院である。

ご本尊のお釈迦さまの上に「
第一義 」の額が掲げられている。上杉謙信が若いときに学んだとされる春日山林泉寺の山門の「
第一義 」の額は有名である。中山林興庵の第一義もかかわりがあるのかと、以前から気にかかっていた。
曹洞宗の元宗務総長であられた朝日寺の
永井孝道ご老師のお話に、第一義は宗門の一番の大事とお聞きしたことがある。もとより理解はおよばないのだが、それでも 天地人 ≠ナにわかに喧伝される
義 ≠フ精神なども何かかかわりがあるのかなと思案になるのである。
寺伝では上杉景勝・直江兼続か゛語られている。素朴にやはりそうかと思いが募るのである。

林興庵の創立は永禄五年(
1,562)とされ、上田の雲洞庵第十二世鶴翁玄林禅師と十四世皪翁守的禅師に導かれて、理外存察禅師の開基と伝えられる。永禄年間は、越後国を平定した景虎=輝虎(
= 後の謙信 )が、幾たびかの関東出兵と川中島出陣を繰返していた時代である。後に上杉景勝が会津に移封となるとき、林興庵開基の理外存察和尚も直江兼続に従って、このムラ(
中山 )を去ったと寺記に伝えている。
天地人 ≠フ時代と林興庵のかかわりは興味になるが、それにも増して中山のムラが如何であったのかと気がかりなのである。ムラの歴史をさかのぼっても、戦国時代にまでいたると手がかりを失せてしまう。見えてくるのは戦国武将の物語ばかりである。そこにムラのルーツとなる日々が垣間見えないかと、三郎次の詮索がつのることになる。
⇒ このブログで触れた中山・林興庵 記事
新潟県 川口町 中山 林興庵 天地人 えちご川口

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