先日の読売新聞(
7月28日・新潟 地域版)の投稿歌
和南津とふ古代の遺蹟を巡りたる魚野の川の段丘を見つ .
「 和南津 」の文字にひかれて読み返すのだが、歌ごころのなさで、歌意を汲むことができない。ただ 和南津・古代の遺跡・魚野川の段丘 だけがわかることなのだ。
投稿者はここの通りがかりか、新潟市の方である。
ここの生い立ちの三郎次は子どものころに、白鳥と皇子の物語、つまり「 古事記 」の
和那美之水門の故事と和南津のかかわりを聞かされていた。この古事記物語と和南津のことは諸書に載るなどして、多くの人の知識にある(
古事記の和那美之水門を川口町の和南津とする説 )。
歌に詠まれた古代遺蹟とは、古事記物語の故地を和南津と考えての詠みであろう。
ここで歌意の上から古代遺蹟のことを問うのではない。歴史の事蹟として、はたして和南津は古事記の和那美之水門なのかと、三郎次の問いになる。
古事記の和那美之水門が和南津であるとするのは、ここに住む現代のわれわれに魅力ある説明になる。だが和那美之水門とする比定地は全国の各所にあって、越後の和南津とする根拠にとぼしいのである。
江戸時代の中期におこる近世国学による古事記研究などの気風が、地方にもおよぶことで、古事記と和南津が結びつけられたのであり、また近世三国街道で、とび坂の峠を越えて和南津の渡津の意味が重きをなすことの印象が、和南津に古代の遺跡を 発明 ≠オたのではあるまいかと考えられるのである。
三郎次 参照 1 参照 2
和南津がはたして、川辺にかかる古代の遺蹟であったか否かは別としても、魚野川に沿う地域が川とのかかわりで拓けてきたことは否定できるものではない。
魚野川と和南津の遠望 ↓ クリック 拡大
中山の林興庵が、古く
江に臨む庵であったことに、この地域と魚野川のかかわりが見えてこないかと、思案なのです。

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