NHKの天地人ドラマの話題から、上田衆の出自の地である魚沼と、そこを貫流する魚野川の俯瞰をと思っていたのだが、書き込みに間があいてしまった。
今日はすこし外れて、手前味噌の書込みとなります。
三郎次とは祖父の名を受けてのこと。祖母の名は
イネであった。曲流する魚野川に添う八郎場の対岸、笹船渡ムラの生まれである。祖母の語りで、子供のころから聞き及んできた川にまつわる物語が、このブログ書込みの基にもなっている。が、話は川のことだけではなかった。
明治三十年代にはままあったことなのか、イネは娘の十五・六歳のころ、従姉と語らって家を出奔し上京する。
祖母の言葉では「けいあん」の口利きで女中奉公についたと云う。まだ江戸の名残をとどめていたのか、雇い人・奉公人などの斡旋・口利きをする人を桂庵と言っていたようである。奉公に上がったお屋敷のことも、イネの語りにあった。お屋敷は音羽にあって、鳩山さまとのこと。すこし年上の「お坊ちゃま」の、白線を巻いた学生帽が眩しかったような語り口であった。
年の若い小女中のイネは奥様に気に入られたのか、外出のときのお供もしばしばであって、芝居見に何度か連れられて、お弁当持ちとして従がったとのこと。そのときお供で見ることになった芝居の様子もイネは話すのであった。伊達藩の御家騒動を筋にした「 先代萩 」では、忠義の乳母政岡とその子千松のことを語り、あるいは「くずの葉」では、女人に化けた白狐が、やがて本性が露見すると、「あべのやすな」との間にもうけた二人の子を残して去らねばならないこと、そのとき「恋しくはたずね来てみよ和泉なる信太の森の・・・」と大障子に歌を書きのこしたとなど、親子の絆のせつなさを、孫の三郎次に語り聞かせていた。
鳩山家では新参小女のイネが奥さまの側に仕えることが多くなると、先輩女中の妬みといじめで、やむなくお暇をいただかねばならなかったとのこと。
もし明治20年生まれのイネがこの世に生存しているなら、このたびの政権交代にはビックリであろう。学生帽の眩しかった「 お坊ちゃま 」のお孫さまが、総理大臣になられたからである。イネが女中奉公の明治三十年代、お屋敷のご当主は鳩山和夫で、「 お坊ちゃま 」が鳩山一郎だったのである。
鳩山家を辞したイネがまたも桂庵を介して見つけた働き口は、中国からの留学生を世話する宿舎の女中であった。ここでは清朝末期の中国からの若い留学生とのかかわりが、当時の世情を写してイネの言葉で語られたが、これはまた折をみてのことになろう。
明治のころの女性の名前に
イネは、おそらく稲米によせる当時の人々の気持ちが託されていたのであろう。イネの身内に
ヨネの名前もあった。まさに稲米である。
三郎次の生きようもまたこの稲米とのかかわりで過ぎてきた。天候に懸念をかかえた今年の稲も収穫の最盛期をむかえている。先日は
今秋初回の産米検査がおこなわれて、すべて一等米となって安堵したのである。さっそくのトラック積出荷は、魚沼産コシヒカリの一番出荷と、流通業者の言葉であった。三郎次仲間農家のがんばりであった。
稲刈り最中であるが、今日はまた天地人の世界に気持ちが飛ぶことになる。かって川井・内ヶ巻の山城に拠って上杉家に属し、やがて景勝・兼続にしたがって米沢に移っていた城将・田中氏の子孫が、400年を経てかっての故地の川井に墓参に訪れるとのこと。
できるならお会いして、お話も伺いたいものである。魚野川と臨江庵の思案に手がかりをいただけるかも知れない。

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