気象庁の暖冬予想を信じて油断していたので、思わぬ雪の年末年始となった。
スベルベさんがこの雪の様子を報告している。あわせて、雪処理用具のスノーダンプを紹介している。
三郎次は今日、スノーダンプで、これまで怠けていた雪処理をする。
今冬の雪の降り始めは、海辺の新潟に多かったと聞いている。降り始めの雪は、平地に積もって、それから山地に移ってくるパターンが多いようだ。この場合はドカ雪になりやすい。この年末の雪がその典型例と思えるのだ。これしきの雪にあわてるようでは、魚沼の住人とは云えないのであるが、平野部の人たちには如何であろうか。
水気を含んでずしりと重い雪を、スノーダンプで処理しながら、フト思い出したことがある。五十数年昔の高校生のころ、長岡の駅頭で見かけた珍風景を。
雪処理に困っていた長岡駅に、高崎の保線区から応援隊の人たちが到着したのであるが、何と長柄をつけた木製の塵取りを(
と三郎次には思えた)、道具として持参していたのである。
この一群の人たちを見て、雪国の三郎次はビックリ。あんな物ではこの雪は如何にもならないと思えたのであった。
今日では魚沼の雪のことは、TV の放映などで、その様子が日本中に知れ渡っているようだが、その以前はなかなかに 豪雪 ≠ェ理解されていなかったようである。
記憶にある36豪雪、38豪雪のどちらであったか失念だが、はじめて現職の建設大臣が新潟の豪雪の現場に立ったのであった。霞ヶ関の中央官庁に豪雪の現実が初めて伝わったのがこのときである。
日本の政治が、北陸・東北の雪対策に動き出したのはこのときからであったと、三郎次の実感である。いわば その時、歴史が動いた ≠フであった。
ところで、ここに120余年前の、ムラの古文書を提示します。
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(
赤線は三郎次の注記です。ここだけでも目を通して下さい。 )
明治15年、旧来の三国通りは国道清水線として整備されることになる。魚野川の橋は八郎場と笹舟戸(
野田)の間に架けられたのである。笹舟戸生まれの三郎次祖母は、この橋の上で遊んだ幼時の記憶を語っていた。
本格的な魚野川架橋だったのであるが、問題は冬期間の雪処理である。地元のムラの役目と言うのが新潟県役所の言い分である。豪雪の魚沼であるから、地元ムラではその負担には耐えかねることになっての陳情文書が残っていた。
箒を以て掃除をするがごとくの雪処理など、まことに以て魚沼の雪を知らない県役所の指示なのであった。新生明治政府の任命で、西国から赴任したであろう県令には、理解の及ばない魚沼の事情なのであった。
ところが同じような事態が昭和30年ころにもあって、塵取り箱に長柄をつけたような道具をもった救援隊が、雪国にやってきたのだった。
明治になっての近代日本の中で、魚沼の雪が理解されるまでに100年がすぎたことになる。
話は冒頭のスベルベさんの書込みのスノーダンプのことに戻るとしよう。
現今に重宝しているスノーダンプの原型は、昭和二十年代に木製の物が有ったと言うことです。ひよっとすると、私が五十数年前に驚いた木箱、長柄をつけた塵取り箱ようなものから発展して、今日の鉄製・ステンレス製のスノーダンプとなったのかと思い返しています。
後日譚
三郎次のこの記事で、近所の先輩からこんな話をいただいた。
38豪雪の時には、救援の自衛隊が川口にも来た。
その時のことに、「 越後の人は怠け者である。毎日箒で雪を掃いていればこんなにならないのに 」といわれたとか。
もちろん冗談めいた話だったのであろうが、はじめて雪国の 豪雪 ≠目にした人の、信じられない現実への驚きであろう。
魚沼の我々には、今でも『 北越雪譜 』の現実がある。雪の薄い地域ののように 雪掻き ≠フ言葉はなく、 雪掘り ≠ナあった。
はたしてスノーダンプの広まりは、 雪押し ≠るいは 雪出し ≠ニ変わることがあろうか。
隣接の魚沼市で、
スベルベさんが平成の『 北越雪譜 』を綴っている。

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