昨年、越後路はNHKの大河ドラマ「 天地人 」で沸き立っていた。
主役は直江兼続であり、上杉景勝である。両者とも魚沼出自の戦国武将の物語である。
直江兼続は、「愛」を用いた兜の前立が有名となっていたのだが、昨年の「天地人展」(
新潟県立歴史博物館)では、ほかにも幾つかの甲冑が展示されていた。そのなかで、舟の「櫂」を十字に組み合わせた兜の前立が気になったのである。

「愛」の前立の意味がいろいろと取り沙汰されたように、兼続がいつの頃、どのようなことでこの「櫂」前立ち兜を用いるようになったのかなど、おそらく事情のわかることは難しいであろう。それでもフト想うことは、景勝・兼続の出自の地である上田(六日町)が、魚野川に添って拓けたところであり、魚沼や越後の領国支配に、魚野川と信濃川とのかかわりの意味の大きいことが容易に想定されて、舟・船のことが思い浮かぶのである。
「天地人展」では、兼続宛の文書の初見として「上杉景勝過所 樋口与六宛」が展示されていて、これも船にかかわる古文書であった。
免
船壱艘、海河共ニ出之置候、
於諸関・諸浦不可有其煩者也、仍如件、
天正八
七月十七日 景勝(花押)
樋口与六殿
( 樋口与六:直江兼続 )
展示図録の解説によると、景勝が樋口与六(
後の兼続)に宛てて発給した船壱艘の通行の許可であるとのことである。
天正八年七月は、御舘の乱で景虎に勝利した景勝が、越後中越地方を平定した時期である。
この同じ時期、落合川口に近い信濃川に沿う河井(川井)にも、舟免許の景勝状が残されていた。
従河井、自由ニ
舟一艘、何時成共
無相違調可通者也、仍如件、
天正八年
六月 日 景勝
役所へ
川口地域にすぐ隣接する内ヶ巻城山には、中世山城の川井城があって田中大蔵が拠っていた。その舘が信濃川に面して川井に構えられていた。上杉謙信の跡目を争う御舘の乱で、内ヶ巻の田中は上田出自の景勝に組していたので、「 舟一艘 」の免状は景勝が越後平定に当って、田中の軍功にたいする恩賞の意味にも、あるいは乱平定後もなお緊張感がつづく領国支配の配慮の意味にうかがえる。
またこれよりやや早い時期、御舘乱の緊張の高まった最中に、同文の景勝状が残る。
従下崎、自由之
舟一艘、何時成共
無相違調可通者也、仍而如件、
天正六年 (景勝朱印)
六月 日
所々役所
下崎は、落合川口の魚野川上流の堀之内(現魚沼市)である。
広瀬口を控えた堀之内地区には、ほかにも長尾景虎(
後に上杉謙信 )発給文書「諸役免除之舟一艘」がある。
諸役免除之
舟一艘、内河受用事、
任侘言旨諸役所不可有相違者也、仍如件、 景虎御書判
(永禄三年)十二月十六日
福王寺兵部少輔殿
福王寺は下倉の山城による薮上将士である。永禄三年の景虎の関東遠征で、在地の警備にを任されていた。

1