書き込みの間延びしている三郎次である。田植前の上野出展の報告は済んでいない。
ここで上野にしようか、それとも四月に書き始めた
直江兼続の兜にしようかと、逡巡しながら、上野の所感にふれることにする。
上野は えちご長岡・佐渡 広域観光フエァー ≠ニなっていた。

上野公園の噴水前広場に佐渡おけさが流れて、お国自慢のおけさ踊りが披露される。
三郎次は自前の魚沼産 三郎次のコシヒカリ ≠担いでの出展なのである。

広域長岡圏、いずこも魚沼産コシの幟を立てていた。もはや米は、魚沼産コシと唱えさえすれば売れるとした、単純な状況ではない。魚沼からの直接の参加者は自分だけなのだから、田んぼの中で、コシヒカリにどんな思いをかけて育てたのかと、都会の人たちに懸命に訴えねばならないとの気持ちで、よその魚沼コシの幟を眺めて来たのである。
それでも魚沼からのお上りさんには、上野の森が珍しいので、人ごみの中に遊びに出かけてみた。
上野公園といえば、田舎者には西郷さんである。この日も三郎次と同じに、銅像の前でカメラを構えた何人かの人たちがいた。
馬上に雄々しい軍人の姿もあった。案内表示を読むと、小松宮彰仁親王銅像≠ニある。彰仁親王は、戊辰戦争には会津征討越後口総督となられた宮さまである。西郷隆盛は東征大総督府参謀としての従軍であった。
明治政府の成立となる戊辰戦争で、長岡に攻め込んだ西軍の要人・指導者の銅像が建つ上野の森に、百四十年後の越後長岡が、物産観光のアピールに出陣したことになる。
三郎次は、宮さまの前にも、西郷さんの前にもしばし立ち止まった。日本の近代化の歴史の流れの中で、あの戊辰戦争はなんであったのか、西軍と東軍の果たしたことの意味を問うてみたかったのである。
西郷さんの銅像の近く、やや小高いところに上野寛永寺清水観音堂があった。三郎次の好奇心はここにも立ち寄ったのである。
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あまり広くはないお堂の中は、参詣の人で込んでいたが、気配は少し変わっていた。子授けの観音と、のぼり幡にあったせいか若い女性の方が多く、その中に入ってしまったことの戸惑いもあった。外国の若い女性が目立った。容貌身なりで、日本人と思っても、話し言葉が全く違う人たちは、アジア系の外国人であろうか。
奉納されている沢山の絵馬札を見て、英語かとおもえても、そうばかりではなく、アラブ系にも見えてしまう。日本文字かと思ってみても、中国語のようである。日本語の祈願絵馬がほとんど見えないのはどうしたことであろうか。
西欧系・アジア系も入り交じって、お守りなどを熱心に吟味している様子は不思議である。戊辰戦争からの百四十年の近代化は、子授け観音とか、お守りの信仰は日本の風土から薄れていることは確かであろうが、日本語を話さない外国の若い人たちに、この信仰習俗は、どう受け止められているのであろうか。単に観光地での好奇心だけなのか。
三郎次の出展テントに立ち寄る外国人も多い。若くて元気な話し口調の女性かと思えば、たいてい中国か、韓国の人たちのようであった。これが都会の雑踏なのか、日本の現代なのであろうか。お上り田舎者には、上野の森は不思議な空間であった。
現代でありながら、中世社会のアジールのような何でもありの場が、混然として一体となった不思議な世界である。

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