
五月には長岡の新潟県立近代美術館で「奈良の古寺と仏像」展が催されていた。
いささかの興味で拝観したのであるが、信仰にも、また仏教美術にも想いの浅い三郎次には、感銘を語ることが出来ない。
今日の日曜は雨だからと、同じ近代美術館に「小千谷縮・越後上布」展に出かけてきた。これはユネスコ無形文化遺産登録記念と謳われていた。
三郎次の日常に織物と関わるような感覚はないのだが、小千谷縮とか上布は魚沼の伝統織物との印象と、幼いとき祖母に聞いた苧うみ≠ネどの話を思い出しての参観である。
やはり奈良の古仏よりも、魚沼の縮上布のことに印象が残ったのは、在方住まいの田舎人のせいかもしれない。
展示会場は撮影禁止となっていたので、残念ながら縮・上布の写真は掲げられないが、会場フロントでは実演が行なわれていたので、何枚かの撮影のお許しを頂きながら、話し込むことも出来た。こんな機会は三郎次には滅多にないであろうからと、ここに掲げよう。

縮・上布は麻織物である。元の糸は、苧麻の皮から製するのであるが、苧麻はもともと魚沼の山野にも自生している。ただ今日では、これを見つけて、縮上布の糸の原料となる植物と知る人は少ないようである。写真は川口の大平山の山頂(十八番)で見つけたものである。
しかし野生の苧麻では糸が剛いので、手をかけて栽培したものを利用していた。今日ではその栽培苧は会津の昭和村から取り寄せとのこと。

会場での実演のおばあさんは、苧麻の繊維を巧みな手さばきで細い糸にしている。この仕事は苧うみ≠ニいって、話だけは聞いていた。しかし実際に目の前にするのは始めてである。

裂いた糸の先を、一本づつ撚り合わせてつなぐ仕事は、根を詰める手仕事で、一反分の糸を苧うみするのに、3〜6ヶ月かかるとのこと。
実演者は、相応のお年寄りであるが、メガネはかけていない。会場の照明もあまり明るくはなかった。それでもすばやい手先の動きである。
「明かりは大丈夫ですか」と声をかけると、「昔は火辺(
いろり)の明かりでもしていたと言うのだがね」と応じながら、手は休まないのである。

目が疲れるともらしていたが、目だけで確めている手さばきに見えず、指先と爪の感じでおぼえた感覚が、巧みな手先の動きとなっているのかと思えたのである。
苧麻の繊維は繊細である。乾くと弱くなるので、口に含んで湿りを与えながら撚り合わせて、糸をつないでいた。

こうしてつないだ糸が、かたわらの苧うみ桶に貯まってゆく。だが、このまま機にかけて織るわけにはゆかない。さまざまな複雑な工程をへて糸を整えて織機にかけるわけであるが、三郎次が不思議に思えて合点がゆかないのは、糸染めときにあらかじめ複雑な絣模様を染めていることである。経糸と緯糸を組んで織り上げると、繊細な絣の模様が浮き上がってくる糸染が不思議なのである。

機織の実演者は、まだ織りはじめて10年ですと云っていた。10年という経験がどんなことになるのか、三郎次には分からないのだが、尋ねないままでしまった。
機もまた根気の仕事である。熟練の織り子でも一日に15〜20cmくらいしか織れないとのことで、一反を織るのに2〜3ヶ月間かかると云う。

織りはいざり機≠ノかける。いざり機は上の写真のように、足をなげだして、その足首で機を操作する。機にかけられた経糸(
たていと)のはしは、左の写真のような腰当てに結ばれている。こうして、織り子は身体の動かしで、経糸の微妙な張りの具合を加減するのだそうである。

足首での操作による経糸の、交互の上下にあわせ、経糸の間を左右にに杼(
ひ)を移動させると、杼と一緒に緯糸(
よこいと)が通ることになる。
こうして経糸と緯糸が組み合わされて織り上げられてゆくのである。

この辛気くさい手仕事は、糸に先染めされた絣などの繊細な模様を合わせながらの打ち込みであるから、熟練な織り手であっても難しい作業となっている。
ここでの書き込みは、織物には素人が、わずかな時間での見聞をもとにしている。理解に錯誤があって、記述に誤りがあるなら、ご容赦とともに、お気づきのことはご叱正をお願いしたいことです。
今日の見聞で、想いうかべることは幾つかあった。そのひとつに、二十数年前の沖縄に遊んだ時のこと、那覇の空港の背後の小緑の丘陵地で逢った方から聞いた昔のわらべ歌のこと。
小緑 豊見城 垣の花
みむらぬあんぐぁーたーが (
三村のお姉たちが )
すりとーてぃ布織い話 (
揃って布織り話 )
綾まみぐなよー (
模様を間違うなよー )
むとぅかんじゅんどー =@ (
元がなくなってしまうぞ )
琉球王朝時代から、小緑・豊見城・垣の花、この辺は織物が盛んであったとのこと。村のお姉さんたちが寄ると、機織りの話しをしている。
絣の模様織りの糸目のあわせを間違うなよ、間違うと元までもなくなってしまうから大変なんだぞ、と、こんな意味のことであろうか。
ここでも糸の先染めから模様を織り出していたので、模様合わせの難しさが唄になっていたのであった。
日本の絣技術は琉球から北上して各地に広まったと云うことである。各地の絣は木綿織りが中心となっていたが、魚沼のの縮上布の場合は麻織物である。
魚沼の絣の技術も、琉球由来である。十日町市史に関係した研究者の言葉に、日本の各地へ伝播の絣の中では、魚沼への絣の伝来はきわめて早く、南からの順次の北上と云うよりも、一気に伝わったのではないかと示唆していた。沖縄の織物と、魚沼が如何かかわったのかと気になるところである。
魚沼の小千谷縮・越後上布は、昭和30年に国の重要無形文化財の指定を受け、ついで沖縄の宮古上布も、同じ重要無形文化財としての国の指定を受けている。上布の文化財指定はこの二つだけのようである。国の北と南にどのような共通とつながりの立場があって、ともに国の重要無形文化財の指定を受けることになったのかと不思議に思えたのであった。
展示会実演で、苧うみをするおばあさんは、細く裂いた苧糸を口に含んで湿しながらつなぎ目を撚っていた。いざり機の実演も、糸を湿しながら織っていた。麻糸は乾きに弱いからと云うのである。
越後では、雪に降りこまれた冬の湿気の中で、織り上げたのが魚沼の縮上布であり、沖縄では、海に囲まれた暑い夏の湿気の中で、宮古上布を織りあげていたのである。
魚沼と沖縄、冬の寒さと夏の暑さの対極の関係にあって、ともに高い湿度が、麻を織るに有利な環境にあったことになる。
20年前、那覇の空港に下りた時、小緑での布織い話しと、綾まみぐなよー の唄は、むっとする暑さと湿気の感触とともに、「小千谷縮・越後上布」展会場で思い出していた。

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