「 未 完 稿 」
ムラの先輩に稲の神さまがいたことは三郎次の幸いであった。
ひとまわり(12歳)年上の先輩は稲の陸羽132号≠ニか農林1号=Aそして愛国≠ネどの稲のことを憶えていた。これら戦前の著名品種は書物でしか知らない三郎次に、ムラの田んぼでの 愛国・陸羽132号・農林1号を語ってくれたのである。
戦後、学校を卒えたばかりの三郎次が田んぼに入り、越南17号=農林100号=コシヒカリ≠ノ関わってゆくのも、この先輩の導きからであった。
彼があの大戦に召集をうけたのは昭和19年10月。出征の前の日まで稲刈りに励んでいたとか、敗戦で復員したのも翌年の10月で、すぐ山の田んぼの稲刈りに出かけたとのことであった。
召集では海軍に配属されて、小型潜水艇の訓練を繰り返していたとか。そして180人の部隊の中で特殊任務の出撃の順番が決まり、彼は2番目の出撃者として待機のまま敗戦を迎えたのであった。
稲のことを話しながら、その合い間にふと語った小型潜水艇のこと。帰還することのない任務の出撃に少しも怖い気持ちがなかったと、その不思議を淡々と話す語りは三郎次には衝撃的であった。
国内観測史上最大と云われる3.11東日本大地震の惨状は、津波の被害をがあって、10.23中越地震の比ではないようである。加えて原発事故の被害は計り知れない。
三郎次の近縁者に、柏崎の原発に勤務する者がおる。事故のあと、すぐ東電本社に移って、福島の現場に出向いたとのことであった。中堅社員の立場になっていたから、選ばれて現地に回されたのかとたと思ったら、自ら手を挙げて赴いたのだと留守の家族の言葉であった。「今生の別れになるかも・・・」の言葉を残しての出発に、戦時中の出征兵士を送るときのように万感の思いで、姿が見えなくなるまで見送ったと、家族の語りを聞いた。
この福島原発事故に関して、ある政党の元代表の発言は、これも衝撃的に受け止めた。
「
決死隊を送り込んで完全に抑え込まなければならない。
政治が決断することだ」
敗戦を避けがたいことが自明となった太平洋戦争の末期、出撃命令をまえに淡々と待機していたと云う先輩は、小型潜水艇の特殊任務での決死隊であった。
原発事故処理に、小型潜水艇の特殊任務のような「
決死隊」を、しかも
政治決断でとの思考の発言には衝撃を受けて、大きな違和感は否めない。非常時といえども、全体のために、個人の存在とその命がどう関わるかは、にわかな発想では論じきれないのである。
二・三日前、電動車で訪ねてきた先輩に、戦時中の小型潜水艇の話を確かめると、昔のことは皆わすれた。だけどもそのことだけは忘れない≠ニ云う。
それは決死隊でしたね≠ニ三郎次が問うと、そう云うことだったなあ≠ニ、何かを思いおこそうとしている。よみがえるのは任務≠ニ遂行≠フ記憶だけなのだろうか。米寿を前にした先輩である。
→(中越地震の後、川口町内投稿ページ) 。倒壊家屋には、犠牲者の探し出しに深夜までムラの人たちが集まっていた。
東日本地震の津波被災では—■■■■■ メッセージ ■■■■■ >

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