今日の記事は川口落合の松沢の春水からである。この沢の口は旧三国通り(
三国街道)に面して、川口あおりさま(川合神社)の旧社地跡がある。往時のこの社地の木陰は、往来旅人の恰好の憩の場であったと伝えられてきた。

春日にここを訪れたときには、もう過っての名残をとどめるものは乏しいのだったが、路傍にひとつぽつんと墓碑が残っていた。魚野川に沿う複雑な形相の街道筋に途惑った旅人の悲劇が語られている墓碑には、安政二年二月と刻まれた文字が読めるのだが、これは今日の話題ではないので後日の分とする。

古社のあおり大明神≠ェ沢口元に立地する松沢は奥の深い沢地である。この名称の松≠ノ、古い土俗の信仰の気配を感じるのだが、今日はこれには触れないことにする。
沢の奥は旧村川口の共有地であり、やはり旧村中山・木澤・武道窪・牛ヶ島に接する大沢である。雪融けや豪雨の時には相応の出水となるので、新潟県の「砂防指定地」となっていた。

「貞享二年川口組絵図」(1685
年)、およそ330年前の川口の古絵地図に松沢川を渡る三国街道が描かれている(
赤い線)。林の中の建物が古社のあおりさま≠ナある。三国往還道の松沢渡りには、早くから橋が架けられていたと絵図からは読める。
(
下方、手前には信濃川に落ち合う直前の
魚野川が描かれている。)
この絵図の街道筋 沢橋渡りの辺から上流を観る。ここの土地の者でない三郎次には、予想していたよりは春水の量が少ないと感じるのである。夏の日のわずかな沢水を思い出して、やっぱりかと思った。
それでも防災の護岸工事が施されていた。

やや奥に進むと小滝が落ちている。不動滝の言葉だけは耳に記憶があるのはこの滝のことであろうか。滝の手前の雑木の高めに何やらが写っている。カマキリの巣である。
ところで、熊出没の話もあるので、臆病にもここで引き返すことにした。

滝の前の木の枝についていたのはカマキリの巣であった。この冬の豪雪を予知していたのか、やはり高めについていた。

帰り際に気づいたため池をのぞいたら、何やら白い不思議なものを見つけた。子供のころ、中山サンゴ山の林中にもぐつて見つけた水溜りにも、このような不思議な白いものがあったことを思い出した。あれはサンショウウオの卵と思っていたので、この写真もやはりサンショウウオの卵であろうか。腹の白いのがサンショウウオ、腹の赤いのがヨモレ≠ニ覚えていたが、知識のない者の勘違いかもしれない。

沢の出口近くに小さな水門を見つけた。
松沢の水はあまり利用されないままに魚野川・信濃川の落合に流れ込んでいると思っていたのだから、この水門は何処への取水口であろうかと気がかりになってきた。

川口浦の水利は裏山・中山丘陵地のしぼり水に頼るだけで、その限界から近世に入っての水田開発はほぼ止まっていたとの認識である。三国通りの川口宿は、人足25人・馬25匹の四半宿(
東海道宿場の1/4規模)と定められていたので、その宿場維持のための地域構成に必須の水田開発の努力は、川向いの西川口にむけられていた。それが正保4年の中新田であり、元禄7年の原新田であった。東川口では、魚野川上流の堀之内組竜光村の芋川からの水路延長で取水する川口前島新田が、幕末の天保14年とおくれていた。
ここの松沢の水を、早くから川口浦に引き入れていれば事情は少し変わっていたであろうが、その気配を確かめることはできない。戦後のまもないころ、上越線越後川口駅では、構内の除雪に松沢の水を引き入れていたとの話を聞いていたが、この水門はそれと関係するのであろうか。土地勘に乏しい三郎次は、この辺りの人たちに尋ねてみたが、確かな話は聞けなかった。
東川口には、裏山の丘陵台地から落ちる水利に大滝≠ェある。初期の川口浦開発には大きな意味を持った水利だったであろうが、近年はまぼろしの大滝≠ニ語られているようである。

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