今年の春の雪消えは後れたので、田植えも遅めであった。コシヒカリの生育も後れ気味、出穂もやや晩めと予想されていたのに、7月の気温はその予想をくつがえして、早い出穂期を迎えていた。
例年の出穂期には、今年はもう出揃っていたのである。
(8月9日のコシヒカリ : 5月23日植え、中山南原 )
(8月16日、今日ののコシヒカリ : 同上 )

昨日はお盆の15日、いつもならお盆には出穂揃いのなかに祖霊の魂まつりを迎えていたのに、今年はもう傾穂期となっていた。
この日、三郎次は川口町(
旧称)の戦没者慰霊碑を訪れていた。
靖国神社にはやや違和感を覚えるのであるが、毎年の8月15日終戦記念日には、町の戦没者慰霊碑に詣でている。自分は戦没者の遺族関係者ではないのだが、記憶のかすかな幼いころ、出征のため振り返りながらムラを離れる青年を、手を振って送ったおぼろな記憶がある。そして再びムラに帰ってくることのできなかった人たちの慰霊碑に詣でるのである。

33戸の三郎次のムラで、ここに刻名されている人たちは9柱である。自分が5〜6歳のころにムラを離れたままになった人たちであるから、三郎次の遠い記憶の中にはもう面影は残っていないのであが、何処の家の誰それと、子供の時から聞いてきたムラの語りの中で、名前だけは覚えている。そして毎年ここに訪れた日に、刻名碑の一人ひとりの名前の上に指をあててなぞっていると、親しいムラの先輩との想いが募ってくる。そのムラの先輩から、ムラの記憶を受け継ぐことのできなかった三郎次の無念を、齢の離れた先輩の魂に語るのである。

お盆は魂慰めの日である。慰霊碑のある川口・宝積寺の境内には盆踊りの櫓が設えられていた。
お盆の十六日は、ムラの鎮守さまの祭礼でもある。鎮守さまに詣でると、いつもの幟幡が三郎次を迎えてくれた。里山の自然の恵みに包まれたムラの暮らしを、我われは引継いできたのであ。その里山に向いて幟幡が立てられている。「霊威鎮豊土」まさにムラの鎮守の思想を掲げたこの幟は、明治二十五年からの百余年の引き継ぎを、先年に複製調製したのである。幟幡の複製調製だけでなく、我われは里山にかかわるムラの鎮守の思想もまた新たな感覚で引き継いだのであった。


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