今朝の雨はしばらくぶりの本格降雨ながら、午後には止んでいた。
天からの湿りをもらって、畑の蘇りがわかるようで、「 いい雨だったのし 」と、こんな挨拶言葉が交わされている。天を見上げると、高積雲と巻雲、高い空は一気に秋の気配が深まっていた。

あまりにも高温つづきで、黄ばんだ稲も、今日はつややかに輝いて見える。
雨上がりの稲を、鳥の目≠ナ見回りたいとカメラを携えて自動車に乗る。鳥の目≠ニは高いところから全体を見渡す俯瞰≠ナある。もちろん鳥にはなれないから、自動車で回る水平俯瞰ということになろうか。
〔 魚野川左岸 〕
魚野川と信濃川の合流する落合の河岸段丘、ここに上ると刈取り間近の稲田が開けている。和南津あたりの里山の向こうに高いのは、遠く魚野川上流の山並である。雨上がりには、遠望の峰が、明るく輝いて見える。

この段丘面の田原は元禄7年(1,694)の開発と伝えられて、ここに立つと川口地域の歴史が俯瞰される思いになる。三国通りの川口宿駅、四半宿とされて人足25人、駅馬25匹とする宿場の負担を支えるために起こされた田んぼである。以来、川口地域は三国往来の宿場の村として位置づけられてきたのである。
「新田」の地名で呼ばれたこの地区は、開発当初の記録で、田畑26町9反とある。川口地域では最も広大な農地の広がりに、稔の秋が訪れていた。

川口で最も広大なこの地区の開発が中世ではなく、また近世に入っても初頭でなく、遅れて元禄期まで下ることは何故だったのだろうか?。それはこの段丘面の土地は肥沃ではなかったことと、水利の便を欠いていたことで、土地の利用開発が進まなかったのである。
今年の暑い夏、各地で聞く田んぼの水不足のこと、ここではどうかと確かめたら、大丈夫だったと農家の言葉である。元禄の開発は水利の確保の苦闘であったが、300数十年後の近代化された水路は、この稲田に豊かな水を運んでいた。
美しい田原を見回していると、フト異様な気配にも気づく。この稲の色合いは、刈取り前のきれいな黄ばみ「こがねいろ」とは様子が違う。遠目に枯れかかったような気配に見える。水は足りていたと聞いていただけに、この様子がおかしいのである。
この夏は高温だからと、田んぼの水は切らさないようにと、重ねかさねの指導が繰り返されていた。結果的に高温時の湛水状態が続くと、かえって稲の根を弱らせて、水不足状態をもたらすとの説明もあるから、その例かと、鳥の目の俯瞰である。地力のある里田、古田地帯の土壌は、水分状況にも柔軟な性質を持っているのだが、この色ぐあいは、開発から300年を経たとは言い、新田地帯の痩せ土壌に出やすい症状にと思えた。
美田とばかりに思っていたのに、荒れた田んぼにも出会う。
雑草の茂る田んぼは、除草剤の使用の失敗であろう。除草剤は散布のタイミングと田んぼの水管理で、効果に大きな差が出やすい。「新田」は、里の古田よりも「水もち」の悪い田があって、除草剤の効果にブレがでやすいことがある。

雑草の茂る田んぼは、除草剤の使用の失敗であろう。除草剤は散布のタイミングと田んぼの水管理で、効果に大きな差が出やすい。「新田」は、里の古田よりも「水もち」の悪い田があって、除草剤の効果にブレがでやすいことがある。

散布の手軽さで、利用がのびている投げ込みタイプの除草剤は、水管理が難しい新田場での失敗例が多いのであるが、ここもその事例で目立つのであろうかと思えた。だが鳥の目俯瞰でフト気づいたことは、草の茂る田に稲の緑が残っていることである。周辺農家の話では、色の残っているのは「一発肥料」の田んぼだと云うことである。
「一発肥料」とは緩効性肥料のことで、効き目が緩やかで持続性が長い特徴の肥料である。通例のコシヒカリ栽培の肥料は、元肥だけでなく追肥が必要であるが、「一発肥料」は長い持続性の効果で、追肥を必要としない栽培法が可能である。ここの新田場のように水田地力の低めの地帯には特に効果的であるから、省力農法として普及が進んでいた。
「一発肥料」による省力は、追肥を必要としないだけのことであったが、それが誤れる方向性を持って、田んぼの巡回が少なくなり、全体の管理が疎かになる 省力=手抜き の形が見えてくると、荒れた田んぼが目立つようになるとの、周辺農家の言葉であった。
新田の段丘面から下りると、魚野川の沖積地である。かっては魚野川の氾濫原であったのが、中世末から近世の初めころに、徐々に拓かれた地域である。川口地域の稲作が、山田・谷内田から平坦地に移る最初の田んぼが、この地域あったと考えられる所である。
天和二年(1,672)検地帳に「わり田」の地名が残されて、ここが年々の魚野川氾濫・洪水に悩まされながらの村立てをした地域と知ることができる。しかし魚野川氾濫は一方で、ここの土性を肥沃にしていた。上位の段丘面から下りると、此処に広がる田んぼの相は明らかに違うのである。

ここは江戸時代の検地帳で、天和以前の「古田」である。上位段丘の「新田」に比べて、田んぼの格付けは、この古田の評価が高かった。それから数百年、生産性の高い良田と評判の地区は、きれいな実りの色あいが広がっている。
しかし、様子の違う稲もやはりある。この濃い色は品種の違いか、特殊な栽培法によるのか、今日の鳥の目俯瞰は、近づいての観察はしなかった。

今年は全般に稲の草丈は短かめの生育であった。倒れた稲はほとんど見当たらないのだが、ここの一枚がいわゆる青畳状態となっている。チョットした肥料の手違いでも、コシヒカリは倒れやすい稲とされているが、地力の高い田んぼではなおのこと倒れやすい傾向にある。
ここも、川沿い沖積土壌の特徴がでたのかなと感じた。
ちなみにこの近辺で、新潟県農事試験場の試験調査の成績記録が残されているが、昭和5・6年、両年の平均収量は4石1升1合/反となっていた。今日数値に換算すると600kg/10a以上となっている。これは今日の収量基準に照らして全く遜色なく、80年も以前の成績かと驚きである。この高い生産地力と的確に向合わないと、このような倒伏稲となってしまうのかと感じだ。
〔 魚野川右岸 〕
魚野川の対岸に移ると、ここも河岸段丘面である。ここの開発は近年で昭和39年ころのこと。それまでは一面に桑畑が広がっていた。明治初年ころの土地台帳を見るに、「切替畑」とか原野の表示が広がっていた地区である。「切替畑」は一般に「焼畑」とされているが、この平坦地に焼畑が実際に行われていたのか、実態は分からない。原野の中に所どころ、捨てつくり、荒らしつくりの畑地が散在していたのかも知れない。
明治時代には、日本の近代化推進に必要な外貨獲得に絹が大きな意味を持ったとされる。川口地域では、江戸時代にあまり大きな意味を持つに至らなかった養蚕業は、明治・大正期にかけて大きく伸びていた。その時代背景のなかで、ここの「切替畑」が、桑畑に変わったのであろう。
日本の敗戦・食糧不足の昭和20年前後の記憶では、桑畑の空いたところに粟稗の雑穀やササゲなどか作られていたと覚えている。そして甘藷畑の広がりがあった。江戸時代を引き継いだ作目に、新来の甘藷が加わって、不足の食糧を補っていたのである。
ここに昭和30年代の後半から40年にかけて、川口地域は戦後の開田時代に入った。規模の大きかったのが相川・武道窪・牛ヶ島の上川開田、次いで中山と西倉の開田であった。
(ちなみに、明治7年の養蚕産繭高は中山村が圧倒で、ついで相川村と武道窪村となり、昭和の開田地域と重なっていた。)

夕日が西に傾くと、田原はときはいろ≠ノ輝く。
中山南原は、桑畑を起こして、魚野川の水をポンプ揚水しての開田である。火山灰質のクロボク土壌の地味は痩せて、保水力のない漏水田となっていた。肥料は2倍くらいも施し、除草剤の効果が悪く、雑草に悩まされ続けた。この痩せた新開田んぼでの苦闘で、稲について多く学び、そしてコシヒカリを発見したのである。
「コシヒカリの発見」
コシヒカリは戦中の昭和19年、長岡の新潟県農業試験場での交配にはじまった。福井県農試で育成されて越南17号となり、私が知ったのは昭和31・32年ころ、農林100号として小千谷農業改良普及所の指導からであった。病気に弱く倒伏しやすい、だから栽培が難しいので山地には無理とのことで、あまり積極的な普及ではなかったと記憶している。たしかにいもち病に弱く、倒れて作りにくかったので、栽培は一気に増える気配ではなかった。当時の主力品種に新2号・新7号・中新203号などが、丈夫な稲で収量があったとされていた。
中山南原が開田されて、不安のある最初の植え付けには丈夫な稲≠ェ選ばれて田植えされたのだが、稲は途中で生育停滞してしまう。普及所の指導でも改善されない稲の委縮する症状は「開田病」と呼んで困惑するのであった。ところがたまたま稲苗の不足で植え付けていたコシヒカリだけが症状の軽いことを知ったのである。これまで弱い稲、倒れる稲とだけの評価で、恐る恐るかかわっていたのに、新規の開田で示した生育は、それまでのコシヒカリの意味を一変させるのであった。私にとっては
新たなるコシヒカリの発見≠ニなった。

1