
梅雨あけが報じられた翌日
(8月4日)、川口裏山の十八番お山に上がってきた。
ここからの眺望は三郎次お気に入りのふるさとポイント≠フ一つである。いつもの見慣れた景観であるが、この日は出穂を前にした田んぼの気配を俯瞰したいと思ってのことである。
魚野川上手(
下の写真左端)の山の先に、わずかに見えるのは和南津の下タ島田んぼである。ここも一昨年の魚野川大変の被害を受けて、今春からの復旧田である。
山上の川口温泉を見通して、その先に中山の田んぼが垣間見える。
目下の家並は川口東部地域、ここはかって関東往還の三国通り宿場の町として、街道に添った細い家並であったが、昭和30年代からの変貌は、かって宿場の村を支えた田んぼを埋めてしまった。そして魚野川の向こうの西川口の田原だけが引き継がれてきた。魚野川の信濃川への落合の沖積地と河岸段丘の田んぼも、近世の開発の後、近代の基盤整理と土地改良を経ての美田である。
だがここの視界からの外に、山陰に中世を引き継いで川口地域の基盤となった山田100町歩は見えていないのである。
( 写真はクリックで拡大 )
コシヒカリの出穂を迎えるこの時期、西の田原の俯瞰である。田んぼごとに色合いの違うまだらの景観はいつものことであるが、1回目の穂肥を打って、さらに2回目を施してほぼ1週間目ころ、出穂直近の色合いとしては、力強い濃さを感じられない田んぼが目につくのは、なにか心もとない気配である。
視界をやや右手、信濃川辺に移すと河岸段丘面の田んぼと、河川沖積地の様子が俯瞰できる。写真の中ほどに位置する
原新田≠ヘ段丘面にあって、江戸時代元禄年間の開発。
手前下側は、河川落合の沖積地の
中新田%cんぼで、早く江戸時代初期に開発されていた。

遠景であるが、こうしてみていて、上位段丘面の
原新田田んぼと、川辺の
中新田田んぼの色合いに微妙な違いのあるのはどうしたことであろうか。
( 続き 後述 )

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