秋晴れの穏やかな陽射しの日曜日、昨日は川口秋まつりが中山の運動公園で催された。
十年前の10月23日も同じに穏やかな晩秋の日であった。昨日のえちご川口秋まつりは、その10年前の
10.23地震のメモリアルの催しで、犠牲者への追悼と復興への祈念を込めた催しである。

この日ばかりはススキ穂の中山高原に自動車の列ができた。県内はもとより遠く関東県からの自動車ナンバーも見かけたのである。

三郎次もこの日のイベント広場にささやかなテント出店したのだが、寄って下さる人はまばら、それでも遠来の人たちとの会話交流には気持ちに昂るものがあった。
同じようにささやかな品ぞろえを前に、にこやかなお母さんたちの出店のテントがあった。白いボックスにおにぎりを盛って なんでも市場 ≠ニ張り紙してある。かたわらにお母さんたちの手作りとみえる手芸品が並んでいる。

お話を伺うと福島から来られたとのことである。3年前の
3.11東北大震災の被災の人たちであった。原発の放射能で、ふるさとから追われて郡山の仮設住宅の暮らしであるとのこと。いつ帰られるともあてのない生き様を語りながらも笑顔があった。同じ地震被災の新潟中越の人たちとの交流は楽しいからと言うのです。このテントの品そろえならまさに交流、ソロバン収支にはとてものことであろう。山古志の人たちとの交流で田植えもし、稲刈りもしたお米のおにぎりだというのです。それならと、福島と新潟・中越のかかわり、山古志のおコメを介した交流のおにぎりを食べて、わが家の話題にしたいと300円3個買うことにした。

新聞紙に包まれたおにぎりは4個、おまけの1個と、彼女たちの笑顔に私の気持ちもほころぶのであった。おにぎりを包んでいたのは福島の古新聞紙、彼女たちの望郷の想いが私にも伝わってきた。
福島浜通りのふるさとに帰れず、山古志との交流で、棚田の稲作に気持ちをいやしているいるという彼女たちは、もともと農家の人たちのようである。原発被災地の放射能除染というけれど、ほんの身の回りの生活圏だけのこと、農地などには望めないと、山などに入ることはとてもできないと云う。里山とのかかわりを絶たれた農業はあり得ないと彼女たちの訴えを聞いた。
山とのかかわり、三郎次の抱く思いも全く同じなのだが、福島の被災の人たちに何の手立てを差し伸べることもできない。
彼女たちは胸の中の重い気持ちを話せること、そして聞いてくれて分かってもらえることで、気持ちも晴れるのだと云う。10年前の中越地震被災のときに思ったことと重ね合わせて、福島の人たちの思いが痛く自分にも刺さってくることを感じるのである。
デジカメを取りだして、インターネットにも載せたいのだと云うと、いいですよと笑顔が寄ってきた。今を生きぬく笑顔である。
10年前の10.23被災のとき、三郎次も近所の人たちと一緒に、ブルーシートの仮テントに身を寄せていた。赤ちゃんを抱いた若いお母さんもいたその日のことを思い浮かべる。

今日の福島の人たちの話しが深く気持ちに刺さるのは、このブルーシートの記憶が重なるからであり、福島と山古志の人たちの交流も、互いに気持ちの痛みが分かり合える人たちだから結ばれている交流と思うのであった。

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