堀之内・川口などの地域の村で、田畑比率をみて、畑地の多い村は中世的な気配を残した村とみてきた。だが、近世に開けた町場などでも畑地率の高いことがある。これはまた別のおりに触れるとして、ここでは通常の山村の場合として、田畑の比率で村の様子を察知する目処としたい。
三郎次在所の川口地域の例で見ると、丘陵山地を切りひらいて流れ出る谷沢の口に面して、中世を引き継ぐムラが展開しているのが、おおむね通例である。
谷内田や谷口田を掘って、初期の村建てがなされたのであろう。日常の暮らしの水利にも、沢からの水の流れでは有利であった。
だが、小さな水利では、山麓から離れて広い田んぼを拓くことが出来なかったので、山麓傾斜地の山畑にも大きくたよらねばならないムラの暮らしがつづいたのであった。
この様子は江戸時代の初期、「とび坂」 峠の下から下島村の間に位置した新道島村では如何であっただろうか。 (
※ 新道島旧村跡 )
←クリック拡大
江戸時代中期の
宝暦年間の村の書上げでは、村の用水は「 下島村落尻の水を引く 」とある。丘陵地の奥を源として、下島村鎮守さまの若宮社の脇を流れる水利のことであろうか。下島村の現地に疎いので、地図にみると「 大沢川 」とされる流れが、村を貫流して、新道島旧村跡で魚野川に落ちている。
下島村の水利は、
宝暦5年の書き上げに、「此の村用水ハ田川其外出水・沢々の水を用、江筋五筋ニ而引、旱損場也」とある。
下島村自体が旱損場とあるから、その落ち水を引いての新道島村に、どの程度の田んぼを拓くことが許される状況だったであろうか。
村の背後の山が、和南津村・下島村の地域であるから、新道島村は水源の里山を持たないことになって、ここでの村建ては当初から田んぼを広げることは望めない立地であった。
それでもここにムラ屋敷を構えるのには、背後の丘陵地から滴り落ちる沢の水の頼りがあったのであろうか。朱鷺の目俯瞰写真に、
← 印の位置が和南津村と下島村境の「 とび沢 」がある。

0