三餘堂の学風などと述べても、無知ゆえにこの先は書きあぐねてしまうのである。ごく素朴な単純な思いだけですすめよう。
江戸期の中ごろに興きた国学は、幕府の支配の仕組みを正当と位置づける朱子学・儒学にたいする批判としての学問であるとされる。儒学や仏教とは違った立場で、日本の古い精神世界に関心をいだき、古事記や万葉集にもあらためて学び、日本の本来のありように気づくことを大事としたのである。
「 やまとごころ 」を唱えて「 韓意 」(
からごころ)を批判した本居宣長は、「 玉勝間 」に記して、「 ゐなかに古のわざののこれること 」として、田舎に残る旧来の様子に注目して、わが国の古意を汲もうとしていたのである。このように地方にも目を注ごうとする学問が興ると、地方にもそれに応じた学問のありようが興ることになる。
国学が、これまで貶められ、蔑視されていたお国言葉(
方言)にも古意をさぐる光をあて、省みることのなかった村々の古地名や、生活風俗にも考証の目を向けようとするのであれば、村々の学風にもこれに応じた学問がひろまりやすかったであろう。仏教道徳や儒教道徳の学問よりも、草莽の学問に国学のひろまりをみるのである。
三餘堂の学風が折衷学を主体としたした儒学であったとしても、そこに学び村の指導者となった人たちには、国学の趣を漂わすことになる者が多かった。西倉の山崎氏、田麦山の大淵氏、小千谷の山本氏がそうであり、関矢孫左衛門もその一人と思えるのである。
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