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わが家の庭前には雑木の藪がある。山から雑多の木を移していたのがいつの間にか藪になった。春の雪消えのときから艶やかなみどり葉は椿ホッパである。蕗のトウが出て山独活も生えてくる。田植えのころにはホウの葉が大きく広がって、その下にツツジの花が咲いていた。
その五月に書き込んだ田の神祝いのホウの葉のことがとどこったままお盆になってしまった。今そのホウの木の下に山百合が伸びている。
これから秋に向かうなら、どんぐり実の楢の木も、栃の木もほしいと思ったり、やっぱり春の山桜は欠かせないぞなどと考えたりもする。そんなに欲張ると狭い庭先には収まりきれないことに気づく。
そしてまた気がついたことは、家の庭先に山の楽しみを移すこととは何なのか、山野の愉快、山野の自然を身近に占めようとすることは、かって日本人の感性では如何だったのかとも想うのである。

山桜をも所望と感じながら、もっと華やかな気はいを持つ「うつぎ」(
タニウツギ)などは庭前に移すことにはタブーを感じている。
子どものころには、ピンクの濃いウツギの花は山桜よりも目についた。山遊びのときに、折りとってもち帰ると「ダメ」と叱られて、「山に返して来い」と言われた記憶は皆持っている。何となく、手にとってはいけない花との印象の記憶が残っている。
ずっと抱いていたこの不思議を、沖縄の知人に話したところ、沖縄のアカバナー(
ハイビスカス)は鮮やかな赤色の花で、沖縄を象徴する花のように知られているが、もともとは今日の世情のようなあでやかな感覚だけの花ではなかったと、そして女の子たちは遊びたいのだが、遊んではいけない花であったと教えられた。

雪国生まれの私はこの深紅のアカバナーを知らなかった。
仏桑花と教えられたこの花は、沖縄ではグソーバナ(
後生花)とも云ってお墓の花の感じがあるとか。
ピンクのウツギの花もカジバナとかソウシキバナと云って忌み嫌う感覚がある。
山のものはやたらと家に持ち込むなと、これは祖父三郎次の感覚であった。正月のお飾りの松は山から迎えるのであった。塞ノ神焼きの芯木も、山から作法をもって迎えていた。小正月だんご飾りのミズ木(
だんごの木)も同じに迎える対象であって、決して山から取って来るなどのものではなかったと覚えている。山のものを迎えるには特別の感覚が伴い、それによる作法が必要であったと考えられるのである。
山野の自然に接する特別の感覚にはそこにタブーも生じることになる。アカバナーやウツギ、山野の自然のとりわけ鮮やかな彩りには特別の感覚がともなって、畏れ多いものとする気持を、日本人は共通の気持ちとして抱いていたのであろうか。
山野の自然に対する特別の感覚、畏れかしこの感情には、そこに素朴な
カミの存在を認める原初の信仰をみることになるまいか。

お盆には各地でムラの鎮守さまの祭礼が執り行われて、幟幡がたてられている。三郎次の中山神社は十二山ノ神を主神として、木の神・久々能智神を奉じている。祭礼の幟幡は背後の山に面してたてられ、野山に畏れかしこの気持ちを抱く自然崇拝の信仰である。
山のものはやたらと家に持ち込むなとした祖父の感覚には、山の持つ霊威、畏れかしこの存在を意識していたことであって、山にこもる非日常を感じていたからであろう。それは今日の言葉で云えば
カミの存在を、山野の自然の中に信じる素朴な信仰である。そしてこの感覚につながるもうひとつの意味は、山の自然は全体のもの、皆のもの、いわば公けを認める原初の村落共同体の感覚が見えてくる。山の畏れはムラ全体のもので、また恵みも皆のものとする共同体意識である。春の山菜の採取がムラの誰にも許されて、今日 個人の持ち山にも 勝手に山菜取りに入るのは、山野自然に関わる共同体意識の延長感覚である。
山のものはやたらと家に持ち込むなとしたことは、山の畏れかしこに触れまいとした畏怖の気持ちと、同時にまた山野の自然をやたらと私≠ノ占めることの禁忌を意味することに理解できる。
わが家の庭前に山の樹木を移し、山百合の鮮やかさを私に占めて楽しむことは、山の禁忌からすれば如何なことかと思うことになる。自然とともにあった人々の暮らしが、少しづつその絆をゆるめながら、同時に共同体感覚の中に私≠入り込ませてゆくのが人間の歴史で、発展・発達・進歩と捉えられているようである。畏れかしこを意識しながらの自然の中に生きることから、やがてその畏れかしこを克服する歩みが自然破壊(
環境破壊)の現代社会なのであろうか。
近・現代文明の自然征服が環境破壊に進むとした現代の反省が、自然との共生≠ニする新たな意識を発明した。しかし祖先から受け継いだムラの感覚をまだ忘れまいとしている我われは、新たな発明に頼らなくとも自らの内面の感覚から、自然との共生≠現代に甦らせることができるのである。
お盆の日の中山神社の祭礼は、そのことを三郎次に気づかせてくれた。
庭前の赤い山百合は、山の禁忌にふれてしまった私≠アころに気づかせてくれた。
この「あかばなー」を糸に連ねて遊ぶのには、そのままの「あかばなー」では駄目で、中央の長い突起(おしべ)を取らねばならない禁忌があるのだと云う。
女の子などはこの「あかばなー」を糸に連ねて遊ぶのであるが、そのままの「あかばなー」ではなく、中央の長い突起(おしべ)を取らねばならない禁忌があったのだと云う。
沖縄のアカバナーが飾り花になって、ハイビスカスと呼ばれる。魚沼でもウツギの花の特別が忘れられようとしている。稲作が近代化して、水利が整うと、野山の恵みを慕う気持が失せてゆく。

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