○小千谷市ボランティアセンター発行の機関誌に知人の地震発生当時の体験談が紹介されました、本人の承諾を得て、掲載させて頂きます、ちなみに東山地区・小栗山のYSさんの記事です。
題名
「10月23日」
鍋が宙に舞い、娘が傷を負う
夕食準備中の台所で火の消える瞬間にみたものは、火が点いたままのガスレンジが鍋ごと宙に舞うところでした。
「えっ!何」「ガタガタガタ、ガチャガチャ!」音と共に停電、今まで経験した事のない揺れが闇の中で何度も何度も続く、立っている家具はすべて倒れ、手を引いてもらい家具の上をよじ登らなければ、部屋から外へ出られませんでした。小5の息子は箪笥が倒れてたんこぶができ、階段が抜けて壁は落ちていた中をどうやって階下に降りたか覚えていないという。高3の娘は膝を切って傷がパックリと開き手当を受けられたのは、二日後に救助された後でした。でもその程度の軽症でした。家を離れて会社にいた夫にもすぐに連絡が取れ、全員無事の確認が直ぐにでき安堵の気持ちで一杯でした。道路の寸断と土砂で川が溢れて、泥だらけになって夫が帰って来たのは夜が明けてからでした。
のどかな風景が一変!
中山間地域を襲った大地震といわれていますが、棚田、養鯉池、
のどかな風景が一変して山と池が破れて、土砂崩れと洪水を起こし、道路が濁流の川となり
、山の壁面が谷に落ち地層も露わに、道路の段差はいたる所に見られ、地割れ、家の倒壊、など悲惨な状況でした。しかし以外だったのは、火災はこの大きな地震の中で2件という少なさでした。食事前で火を使っていた人がほとんどだったと思います。これは阪神淡路以降のガスのシステムが改まっていたおかげで本当に助かりました。火傷の人も随分いましたので、仮設の入ってしばらくは台所にたつのが嫌だ、揚げ物がまだ怖くて出来ないという声を多くききました。野池と越冬池が破れて道路が洪水状態、水がどんどん増えていく錯覚に襲われ、足もすくわれ恐ろしかった。上に行ったらよいか、下に行ったらよいか、どうすればいいんだらう?避難場所がわからず右往左往では無く、分かっていてもどうしてよいかが解りませんでした。
今でも耳に残る
「バリバリ、メリメリドドド」が同時に混ざった濁音、それは東山小学校の前にある山の壁面が4度目かね5度目の揺れで谷底に落ちる時の音でした。暗闇の中で、しかも地割れのするグラウンドにうずくまって聞いた不気味でいやな記憶の一つです。余震が強いのと、地割れのグランドに阻まれ避難しようとしていた体育館に近づくのをあきらめました。二手に分かれていた町内の人が一箇所に集まることになり、移動することになりました。学校のスクールバスが無事だったので、お年寄りから乗ってもうらことになりました。寒さも増してきたのでバスは助かりました。
最初はその辺で用をたすのも勇気が必要でしたが、一日くらいなら何とでもなるけど続くとどうなるだろう、総てのことが不安だらけでした。
夜半になり町内の会館の様子を見て大丈夫そうなので建物の中に入って過ごすことになりましたが建物の中にはとても入る気がしないと言う人もいて、車とバスと会館に70名の人々が二日過ごしました。
冷たく見えた月明かり
いつの間にか綺麗な月が昇って、澄んだ晩秋の空に蒼い光は闇から私達を救ってはくれましたが、過去に見た月のなかでは一番冷たくみえました。町内へ登ってくる道路はすべて崩れているという中で、泥だらけになった人が次から次と上がってきました。先へ進みたいのに道路がないため崖を這い上がり、田んぼや野池の畦をつたって来ました。携帯も繋がらない、家族の安否が気になる、単に我が家へという想いで登ってくる人を見るにつけ胸が熱くなりりました。市内で唯一火災が起きた岩間木地区、「ズドーン、ズドーン、ズドーン」3回続けて爆音の大音響が轟きました。我が家への想いが募っている人が見つめるなかで、とても残酷な炎と爆音でした。更に山古志の人等もやって来ました。ここにたどり着くだけですでに疲れきっている人もいて、夜が明けるまで留まる人もいました。その次の日もそうでした。一人で子供3人を連れた若いママが、我が家への想いで夕方になって登ってきました。みんなで説得してその晩はここへ留まる事に、夜半の家族と連絡が付き翌日の朝、待ち合わせ場所に迎えに来ることになり、ほっとしました。
同級生の訃報に泣く息子
夜中にラジオで子供の同級生の訃報を聞きました。涙が止まりませんでした。どうやって子供に伝えようか考えがまとまらず、夫が戻ってきたら相談しようと考えていたのですが、夫は相談する間もなく子供に会った瞬間に友の死を告げました。小5の子供は声も出せずにあふれる涙を拭ってまた拭って肩を震わせ泣きました。
頼りになった地域の力
夕食をとっていない人がほとんどなので明るくなるとほぼ同時に食事の用意が始まりました。最初は汁物とご飯だけでしたが、家から持ってこれる物は協力し合ってコメがある人は米を持ちより、冷蔵庫の中身を提供する人/乾物/保存食/牛乳/何でも役に立つ。朝・昼・晩の食事当番を決めることにしました。
すべてのライフラインがだめな中で、若い人の活躍が際だちました。発電機の設置、LPGのボンベの設置、水を引く、ヘリポートの目印作り、情報収集等、何をするにも普段の生活の中では決して見えて来ないことばかりで非常時の手際の良さに、感心し頼もしく見えました。上空を飛ぶヘリコプターは、一向に降りてくる様子も無く通り過ぎて行きました。私達のことは、まるで忘れ去られているのだろうか、東京から新聞記者は来るのに、対策本部からは、何の情報も来ないと不安が募りました。それから2日後ヘリで救助され搬送されました。ヘリの中から見た被害の酷さに、もうここに戻ることが出来ないのではないかと思いながら、崩れた山を見ながら東山を後にしました。
東京でも地震を体験
皆様の記憶に新しい7月23日午後4時35分頃震度4〜5の地震を東京で体験しました。私達小千谷市と杉並区とは昨年5月に防災協定を結んでおり、東山小の親子はNPO杉並文化村の招待で天満敦子さんのヴァイオリンコンサートに来ていました。天井からコンクリートの破片が落ちてきて演奏は一時中断、小千谷の私達は、地震と認識でき落ち着いておりました。演奏の感動も含めて忘れられない日になりました。

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