主観(的)・客観(的)という言葉が時として飛び交う。
率直に言わせてもらえば、それらの言葉が無反省に形容句的に使われている文章を読むとおぞましく感じる。
なぜなら、それは、おうおうにして、主観=思い込み・客観=真実、言い換えれば、主観=×・客観=○という価値判断を伴って使われているからである。
主観・客観という言葉をそのようなかたちで使われる方々に問いたい。
「純粋な主観」や「純粋な客観」というものを考えた上でなお、そのような用語法を続けるのかと...
カントの理性批判はともかく、近代科学哲学の祖とされるデカルトの「我思うが故に我あり」という言葉はよく知られている。
しかし、デカルトはその表現から誘導されがち(利用されがち)な主観主義者ではない。そうであれば近代科学哲学の祖にはならなかったはずだ。デカルトは、超越神を信じ、それが有する“特性”が人にも及んでいることをもって人の認識の客観性(真理性)は保証されると考えていたからである。
「我思うが故に我あり」は泥沼の懐疑論を避ける思惟主体の確実性の言明であり、「超越神の特性分与」が論証に付きまとう無限後退(それも主観でしかない!...の無限指摘)を回避させるという確信によるものだったと思っている。
神に支えられた思惟主体が行う認識の確実性を表明したのが「我思うが故に我あり」なのである。
(間違って理解されていることに「実験的検証」の問題がある。実験的検証は、錯誤されているように、理論の客観性を何ら保証するものではない。それは、検証が主観によってしか行われ得ないことを考えればすぐにわかる。実験的検証は認識対象の事象を再現することでしかなく、認識対象の事象を認識するのは常に主観なのである)
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