上 から続けてお読みください。
「細(こま)かい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山(しろやま)の戦(たたかい)では死ななかったと云う事です。」
これを聞くと本間さんは、急に笑いがこみ上げて来た。そこでその笑を紛(まぎら)せるために新しいM・C・Cへ火をつけながら、強(し)いて真面目(まじめ)な声を出して、「そうですか」と調子を合せた。もうその先を尋(き)きただすまでもない。あらゆる正確な史料が認めている西郷隆盛の城山戦死を、無造作に誤伝の中へ数えようとする――それだけで、この老人の所謂(いわゆる)事実も、略(ほぼ)正体が分っている。成程これは気違いでも何でもない。ただ、義経(よしつね)と鉄木真(てむじん)とを同一人にしたり、秀吉を御落胤(ごらくいん)にしたりする、無邪気な田舎翁(でんしゃおう)の一人だったのである。こう思った本間さんは、可笑(おか)しさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出来るだけ早く、老人との問答を切り上げようと決心した。
「しかもあの時、城山で死ななかったばかりではない。西郷隆盛は今日(こんにち)までも生きています。」

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