はじめに
1、「心停止後の臓器・組織提供」と称して1960年代から行われてきた「脳死」臓器摘出
2、脳死判定基準への批判が強まり、脳死概念が崩壊するなか、始まっている与死(よし)
3、臓器移植法改訂案に登場する脳血流検査は、「脳死」判定を延命し、安楽死・尊厳死を拡大、強要する
はじめに
マスメディアの報道により形成された、普通の市民の臓器移植や脳死についての現状認識と、実際に行われていることには大きな隔たりがある。
「脳死」判定および臓器移植について批判的な意見を持つ人々、運動体の間でさえ、現状認識がなされていない事項が多いように思われる。世代間のギャップも生じつつある。
さらに現実は、「脳死は人の死か」という医学的・哲学的レベルの話ではなく、日本移植学会雑誌に「一定の判定基準を満たした者に、社会の規律として死を与える与死(よし)」の思想が発表されたごとく(*1)、群馬大学医学部救急部が「大脳死」症例を発表したごとく(*2)、過去の「脳死」論議に囚われていては理解も追いつかない、優生思想の強まる社会に突入しつつある。
科学的・哲学的な偽装を剥ぎ取られてきた「脳死」が、安楽死・尊厳死の衣を被りなおして生き延びようとしている。
過去の臓器摘出・移植や脳死判定に関する情報を見直し、間違った現状認識を正し、知識を共有し、現在進行している事態から近未来に起こりうることを見通さないと、今後の対応 を誤るであろう。
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「脳死概念の崩壊」に替わる、「社会の規律として強要される与死(よし)」の登場守田憲二(2006年9月6日初版)
今回、2006年9月18日大阪国際会議場 グランキューブ大阪において安楽死・尊厳死法制化を阻止する会+良い死!研究会の主催による「第二回 研究集会 <死の法>―脳死臓器移植と尊厳死法の検証―」が開催されることになった。この機会に合わせて、現状認識をいくらかでも共有したいと考え、以下の小文を提示します。
1、「心停止後の臓器・組織提供」と称して1960年代から行われてきた「脳死」臓器摘出
日本では1960年代から「心臓の拍動が停止した死後の臓器・組織提供」が行われ、死体腎提供者は累計二千数百名(うち小児は百数十名)にのぼる。
このほか膵臓、肝臓、組織のドナーもいる。
死後の臓器提供と称するものの「心臓が徐々に止まり安らかに死を迎えた後に臓器提供」という手順では、臓器や組織に血液が凝固し、機能が低下して移植に使えない。
このため心臓が動いている段階で「臓器冷却と脱血目的の管を挿入」「血液凝固を防止する薬剤のヘパリンを投与」など、ドナーの救命目的ではなく移植患者・レシピエント目的の、違法性が阻却されない行為がなされてきた。
ドナーの生存中から、救命に反するが臓器の鮮度維持に役立つ全身管理を、ドナー家族に隠して行った施設もある(移植13巻5号p235〜p239および日本外科学会雑誌79巻11号p1417〜p1425)。
3徴候死ではない状態での臓器摘出として「人工呼吸器をつけたまま摘出」あるいは「人工呼吸器を外し心臓が完全に停止しないうちに摘出」「心停止しても心臓マッサージ、人工心肺」「麻酔をかけて臓器摘出」などが行なわれてきた。
自然死後の緊急手術としての臓器摘出ではなく、予定手術の臓器摘出も行なわれてきた(移植19巻6号p470)。心臓拍動中の脱血、人工心肺で全身を冷却して心停止させて臓器を摘出したケースもある(移植4巻3号p218〜p219)。
日本移植学会元理事長の太田和夫氏は1997年9月29日の座談会“臓器移植法の成立と今後の臓器移植の問題” (今日の移植10巻6号p805〜p820)において
「法律というのは、基本的には後追いでできるもので、まず最初に事実をつくる必要がある、と法律家にいわれました。私たちが脳死で腎臓移植を始めたのはそのためです。しかし心臓移植や肝臓移植をやって事実をつくると大変なことになるので、現在行なわれている腎臓移植でもって事実を積み上げていったらいいかと思い、実質的には百数十例ぐらいやりました」
と述べ、心停止後の死後の臓器・組織提供と称して、「脳死」臓器摘出を行なってきたことを認めた。
上記の行為は、私は現代では法的脳死判定手続き下でなければ傷害致死と考えるが、現実には家族の承諾だけで毎年数十例の提供がなされている。
このような臓器獲得が起訴もなされてこなかったことは、検察庁に「臓器・組織移植は、医療に役立つ」との思い込みがあるのも要因と思われる。
しかし日本移植学会が腎臓移植患者の生存率等を公表する時の出典:腎移植臨床登録集計報告(移植40巻4号p358〜368)は、総症例数1万1463例のうち消息不明は4,014例、消息判明率は65%とお粗末な統計だ。
移植を受けた患者のQOL調査も、数百例規模でしか行われていない(神戸大学医学部紀要 第63巻第3・4号 p39〜44)。
腎臓移植は、腎不全患者の利益に適うものか医学的根拠は存在せず、医療とはいえない。
「患者のためではなく、移植医が移植手術により業績をあげる」、これが40年以上にわたる「脳死」臓器移植で追求されてきた事だろう。
2、脳死判定基準への批判が強まり、脳死概念が崩壊するなか、始まっている与死(よし)
移植関係者は「心停止後の提供」と称して「脳死」臓器摘出を行なう既成事実作りをしてきたが、もう一つの既成事実づくりも始まっている。
それは「一定の判定基準を満たした者に、社会の規律として死を与える与死(よし)」だ。(与死の概念は日本移植学会雑誌「移植」40巻2号p129〜p142に掲載)*1
例えば法的脳死判定1例目の高知赤十字病院、3例目の古川市立病院、4例目の千里救命救急センターは日弁連から、そして9例目の福岡徳州会病院が福岡県弁護士会から人権侵害の勧告を受けた。
これらの勧告は各臓器提供施設の非協力から「ドナー候補者に対する治療が尽くされたか」という人権救済申立書の指摘は判断せず、脳死判定手順の間違いなどを指摘した勧告です。
しかし臓器摘出施設の当事者が書いた論文によると、法的脳死判定7例目の杏林大病院は、低血圧で脳死判定対象外とすべきなのに臨床的脳死判定をし、法的脳死判定の確定=死亡宣告をする以前から、移植用臓器を獲得する目的で、ドナーの救命に逆行する内容の投薬・輸液などを開始しました(ICUとCCU25巻3号p155〜p160)。法的脳死判定10例目の市立函館病院(函館医学誌25巻1号p5〜p15)、11例目の昭和大学横浜市北部病院救急センターは中枢神経抑制剤の影響を受けた患者は脳死判定してはいけないのに判定した(Neurosurgical Emergency7巻1号p41〜p44)。31例目の神戸市立中央市民病院(第31例目の脳死下での臓器提供事例に係る検証結果に関する報告書)、33例目の聖隷三方原病院(第33例目の脳死下での臓器提供事例に係る検証結果に関する報告書)も同様に、中枢神経抑制剤の影響下とみられるのに脳死判定を行いました。
17例目の新潟市民病院は、前庭反射、咽頭反射がある、臨床的脳死診断の9時間前から「脳死に近い状態である」と妻に説明し、臓器摘出目的の昇圧剤を投与した(新潟市民病院医誌23巻1号p67〜p72)。
なぜ、法的脳死判定手続きを無視し、脳死判定対象外とすべき患者を脳死判定し、判定手順を違え、死亡宣告以前からレシピエント目的のドナー管理が行われたりしているのか。それは、できるだけ多くの臓器ドナーを確保したいとの意図があるからでしょう。
「日本は銃撃や事故による若い脳不全患者が少なく、高齢の脳血管障害患者が多いので移植に適した臓器が得にくい」
「臓器提供を承諾する家族が減少している」
「麻酔など中枢神経抑制剤の影響が残っているかどうかは、患者の脳組織を採取して血液内の薬物濃度と比較するしかないが、生存中に脳組織は採取できない。中枢神経抑制剤を投与された患者を脳死判定対象から外すと、脳死判定対象患者は激減する」
などの事情でしょう。
脳死判定の虚構も、広く知られるようになってきました。頭皮上に電極をおいて脳波を測定して何も測定できなくとも、頭蓋内あるいは鼻腔に電極をおくと脳波が測定される場合がある。
反射、無呼吸テスト、深昏睡の検査は、反応するに足る刺激を加えているのか不明だし、刺激に対する反応が起こっているのに気付いていない可能性があることです(脳死・脳蘇生16巻1号、p22〜31)。
脳死概念も崩壊しています。脳死判定基準を満たした患者のなかに、数週間〜年単位で長期生存する方が無視できないほどおられるからです。
脳死判定基準への批判が強まり、脳死概念が崩壊するなか、あくまで「臓器移植を続けたい、脳不全患者の治療を打ち切りたい」者にとっては、「脳死は科学的に言って人の死」とは言えなくなりました。
「一定の基準を満たした患者は、社会の規律として死を与える」ことを合法化するしかなくなってきたのでしょう。
このあたりから、臓器移植法の改悪案と安楽死・尊厳死法案に通底することがあると思います。
「脳死判定は非科学的、脳死概念は崩壊した」と指摘されても、安楽死・尊厳死として各人が選択した死に方にすれば脳死判定は残るのです。
3、臓器移植法改訂案に登場する脳血流検査は、「脳死」判定を延命し、安楽死・尊厳死を拡大、強要する
脳死判定に脳血流検査を追加する案は、河野太郎氏のメールマガジンでも書かれたことがあるので国会論議の中で河野氏も主張するでしょう。
金田案骨子には最初から書かれています。
字義どおりの脳血流停止、頭蓋内に血流がゼロ、まったく存在しないことを測定できる技術が、現時点において存在しているのであれば、脳死判定に脳血流検査を追加する案は検討する必要があるかもしれません。
ところが、現実の脳血流測定は感度が低い。「脳血流停止」「脳内代謝停止」とされながら、脳波、聴性脳幹反応、自発呼吸、長期生存例のあることが報告されています(以下の6文献10例)。
1. 杉野 繁一(日鋼記念病院)は日本集中治療医学会雑誌11巻supple、p163(2004)で「臨床的脳死と考えられた75歳女性は、脳血流 SPECT、FDG−PETでは脳血流、糖代謝は認められなかった、ABRでは1波〜5波のいずれも消失。しかし20mm/μvの高感度脳波測定で10Hz、15μv程度の振幅があった」。
2. 星田 徹(奈良県立医科大学)は臨床脳波44巻5号p295〜p302(2002)で「びまん性脳損傷と外傷性くも膜下出血の58歳男性は、受傷5日目の脳血流SPECT検査で頭蓋内血流はほとんど認められないにもかかわらず、受傷後8日目の脳波で6Hz、8μvの律動性活動が認められECIと判定できなかった」。
3. 星田 徹(奈良県立医科大学脳神経外科)は小児の脳神経26巻4号p303(2001)で「32週に1,576gで出生した男児。2ヵ月半後のSPECT検査で大脳血流なく、さらに3ヵ月後のSPECT検査でも同様の所見であった。臨床的に脳死と判定したが、脳波検査では発症後1.5か月、2か月後にも10μV前後の脳波活動を認めた。1歳8か月時の脳波検査でも同様に脳活動を捉えることができた」。
4. 今西 正巳(奈良県立医科大学救急科)は日本脳死・脳蘇生学会誌13巻p16〜p17(2000)で「脳挫傷の56歳男性、第6病日のSPECTでは脳血流は認められず、第9病日に瞳孔散大、脳幹反射消失。第10病日は平坦脳波といえず、5倍感度でも平坦脳波、脳死診断は困難であった。窒息による心肺停止の60歳女性は第17病日に瞳孔散大、脳幹反射消失、SPECTでは脳血流は認められなかった。第19病日の脳波は3μVの電位変化がみられ、平坦脳波、脳死診断は困難であった」。
5. 森田 浩一(川崎医科大学核医学)は日本医学放射線学会雑誌53巻臨時増刊号S380(1993年)で「脳血流停止がSPECT上で示された5例中2例に自発呼吸が認められた」。
6. 中村 弘、渡辺 義朗、佐藤 章、小林 繁樹、景山 雄介、平井 伸治(千葉県救急医療センター脳外科)、古口 徳雄(同神経内科)は、救急医学12巻臨時増刊号S128〜S129(1988年)で「頸動脈撮影は48例(51回)、全例で脳波を、20例でABRを施行後3〜4時間以内に、また臨床的に脳死を疑った時点から14〜56時間後に施行された。48例中3例(6.3%)はnonfillingであったが、2例で脳波上Hockaday4aを、1例でABR上1波を認めた」。
以上のように脳血流停止「所見」がありながら、臨床的脳死診断や脳死判定をくつがえす患者が報告されています。
つまり脳血流停止「所見」をもって脳死と判定するなら、そのなかに自発呼吸や脳波が再現する方も入ってしまいます。
複数ある臓器移植法改訂案のうち「脳死は人の死ではない」を基調とする改訂案もあります。
「脳死は人の死ではない」ならば、脳血流検査の採用を推奨するのは、なおさらとんでもないことと指摘しなければなりません。
法的脳死判定11例目であったように、脳血流検査は感度の悪さが知られていないため、他の検査で不確かな場合に脳死判定を補強する目的で使われがちです。
低感度の測定技術を採用することにより、「脳死は人の死」どころではなく、実質的に、より過激で優生思想的な大脳皮質死、高次脳機能死を採用してしまうことになりかねないからです。
これは私自身が経験したことですが、 2005年2月26日のイベント「市民が考える脳死・臓器移植」では、心臓電気生理学の渡部良夫氏が無呼吸テストの「脳死作成法」的な性格を説明
されました(
http://www.i.dendai.ac.jp/~wakamats/braindeath_doc/Report_A/11c.html)。
それに対して、千葉県救急医療センターの小林繁樹氏は「脳血流停止を確認してから、無呼吸テストを開始しているから、そのような心配はない」旨を発言、それに私が反論しようとしたら、主催者から時間切れで終了を宣告されて言えなかったことがあります。
それは千葉県救急医療センターの小林繁樹氏らが、自ら上記の救急医学12巻臨時増刊号で報告しているとおり、脳波を測定できるほど脳が生きているのに、 nonfillingだった3例を経験していることです。
「脳血流停止」と称される状態であっても脳波が測定されうる患者のいることを自ら経験していながら、一般人向けには脳血流検査の「有用性」をあくまで主張するのです。
イベント「市民が考える脳死・臓器移植」では、専門家として誠実な情報提供が求められる場面において、参加者全員を騙したのです。
脳血流検査が感度の悪い検査であることについて、広く知られないうちは、千葉県救急医療センターの医師らのように、騙し続ける医師が絶えないでしょう。
参考:
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*1:
移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介
“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”
4月10日付で発行された日本移植学会雑誌「移植」40巻2号は、p129〜p142に松村 外志張氏(まつむら としはる・株式会社ローマン工業細胞工学センター)による「臓器提供に思う−直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案−」を掲載し ている。
論文は「1.夢の実現は新しい問題を連れてくる」の見出しで始まり、臓器移植法が制定されたものの脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいることから書いている。松村氏はp140以下で、未完成と断りながら4つの原則を掲げた(要約)。
@生存者意志優先の原則
死者の生前の意思表示よりも、遺族あるいは親密な関係者の意志を優先して尊重する原則である。
ドナーカードでの意志表示は、遺族のおそれを削減することが第一義であり、取り扱いの決定はあくまでも遺族に委ねるとするのがここでの提案である。
極端に言えば、遺族がおそれなければ、そしてそれにかけがえない必然性がある場合には、ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえるとの立場である。
A特定条件における与死許容の原則
科学的な根拠に基づき、国会の承認を経て定義された一定の判定基準を満たしている者に対して、遺族あるいは親密な関係者が死を与えることを、本人が生前に遺族に対してそのような判断を委ねている場合には、非倫理的であるとは見なさないとする提案である。
この提案はまことに悲しい提案であり、また誤解を受けるかもしれないとおそれている提案でもある。
ここでは脳死を死と認めるかどうかを論ずるのではない。
つまりこの提案は、遺族あるいは関係者が、科学的根拠に基づいてある特定の判定、この場合は脳死判定を受けた者に対して死を与える、つまり殺意を持つことを非倫理的なこととして排除しない、ということと同義だからである。
ここで「殺意」を非倫理的なこととして排除しない特定の判定基準の内容は、法律で規定されなければならないとしても、脳死と限定しているわけではない。それは時代に合わせて国民の決定に委ねられるのである。
B命のつながり重視の原則
脳死体も含めて死体から提供される移植目的の臓器提供は、移植によって生命がつながる可能性が高い場合を優先するとする原則である。
歴史上、なにゆえに与死が許容されてきたのかを回顧した時、すべての場合、それが結局はその社会の存続に関わってきたのであることが察せられる。
平和の続く我が国では、忘れられがちなことではあるが、我が国で社会の存続に関わるような危機はすべて回避されているかというとそうでなかろう。
とどまらない出産の減少はなにを意味するのであろうか。
心臓が動いている者に死を与えてまでなさねばならぬことがあるとすれば、その意味は、したがって明らかなのではないだろうか。
C訓練必須の原則
緊急の場において、悔いない判断をするためには、日常生活のなかでの訓練が必須であるとする原則である。
臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。
身近にあって生きている者が死ぬということはそうしょっちゅうあるものでない。
そこでなんの精神的な準備もなければ、脳死の宣告を受けた段階で確信をもって臓器移植を判断することは容易なことではないに違いない。
日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できることは当然予想できることである。
松村氏はp141の「まとめ」で
「医療技術の進歩は、夢の実現とともに新しい課題ももたらしてきた。臓器移植は、そうでなければ限られた生命の日数を数える患者に生命の延長を許すのみでなく、社会生活への復帰などかけがえない人生の喜びを与えている。死体あるいは脳死体からの提供が望まれており、またそのための法律も公布されているが、実績としてみた時、生体臓器移植が圧倒的な増加を見せている。すなわち、移植のための臓器の多くは、そのために命を危険にさらすことも惜しまない親族から提供されているのが現実である。なかんずく、次世代を育みつつある者を容易に命の危険にさらすような環境を作ることは、先進近代国家としてあってはならない。臓器移植の世界は全く新しい世界であり、過去を振り返っても得るものはないとの考えがあるかもしれない。しかしあえて、過去の歴史と我々の生活習慣のなかから、新時代に対応できる智恵の種を探ろうとした。ここでは、個人に降りかかってくるリスクをコミュニティーのなかで分散し、社会全体で支えてきた様々な知恵があることがうかがわれた」
としている。
当Web注:
1. 松村氏はp135で「日本が世界一の健康国であり、新しい試みを導入することには慎重が求められる。臓器移植は高コストであり、その推進が一般医療を圧迫する」と認識しながら、それでも臓器移植を推進する理由を示していない。
2. 臓器移植を推奨する医学的根拠が少ないことから、闇雲に臓器移植を推奨する ことこそが「社会の存続」にマイナスになる可能性もあるが、こうした現実に認識がなく臓器移植推進の前提で論を進めている。
3. 臓器提供意思表示カードの所持者が脳死ではないにもかかわらず臓器摘出にむけた処置を開始され、臓器獲得目的で法的脳死以前にドナー管理を推奨する医師が多数いるため、与死の許容が現実には臓器獲得目的の 一層の殺人奨励となることに認識がない。
4. 時代に合わせて国民が決める条件で与死を許容するならば、脳不全(脳死)患者だけでく、臓器不全患者(移植待機患者)も「 高額な医療費がかかる」として与死が許容されるだけでなく、脳不全患者がさらされているのと同じ生命を短縮される環境におきかねない。
p138「8.生と死の境−ヒトはいつまでヒトでいつからモノなのか」の段落では、以下の記述がある。
人はいかにして生死の境を判断してきたか。
この問いをもって過去の歴史をたどると、そこには様々な判断があり、それはまた我々自身がいかに柔軟な死生観を持ちうるか、また「死」と「殺」とがいかに近い関係であるかが読み取れる。
死んでしまった人が、まだ生きているがのごとく感ぜられることは誰にでもあることであろう。
一方、生きていても死んだものとなんら区別なく平気で扱うこともまた、人間を対象とした場合にはともかく、動物を対象とした場合には、少なくとも私にとっては、しばしばあるのが日常である。
飛び跳ねている魚や蝦を見て「うまそう!」と口走る者がいてもあまり驚かないだろう。
その時これらの生物は、脳の中では生命が無視された存在であり、なんの感情もなく殺せる「虫けらのごとき」存在ということとなる。
武蔵が「小次郎破れたり!」といったかどうかは知らないが、その時小次郎は武蔵にとってすでに「虫けらのごとき」存在だったのではなかろうか。
歴史を振り返る時、生死の判断は、現代的な意味での生死の判断とは随分と異なった形でなされてきた。
なかでも生きている人に対して死を与えるという形での取り扱いが、高度に制度化されたなかで行われてきた場合が少なくない。
原日本的には、イキモノとはすなわち息をしているモノであり、呼吸が止まることが死を判断する主要な基準であったと考えられる。
息が止まることを死とする以外に、他の判断もなされてきたことも忘れられない。
原野を遊牧する民は、移動生活に耐えられなくなった者を原野に置き去りにするのが習慣であった。
ある地域では、ある程度以上に衰弱した身体状態(いはば死に体)となった者は、まだ息があっても埋葬した。姥捨てという習慣も、伝説のことであるか実在のことであるかは不問としても、あってなんら不思議なことではなかったと考えられる。
そのような習慣の背景には、息をしていても、死を与えるものとして取り扱う考え方があったものと考えられる。
それでは生きながらにして遺棄されたり、あるいは埋葬される者は怨念のなかに死んでいったのであろうか。
そうではなかったであろう。それはその社会の掟であり、自分もその両親をそうしたのであり、いま自分の番となって従容としてそれ受け入れたに違いない。
本人が受容していることを前提として、一定の社会的なルールのもとで生者に死の選択肢を選ばせることに対して、適当な言葉を発見できなかったので、「与死」という勝手な言葉を使うことをお許しいただきたい。
与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である。
与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は、死を選択するという本人の意志を尊重するという考え方であるに対して、与死は、社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる。
息をしているかしていないか、心臓が鼓動しているかしていないか、あるいは脳幹が機能しなくなったかどうか、というような個別的な判断基準でなく、ある意味で、生きていても死を与え、また死んでいても(タマシイとして)生きたものとしてきたのが、我々の祖先の歴史だったのではなかろうか。
ここでは、「死」と「殺」はきわめて接近した概念であったに違いない。このような歴史の延長として現在を見る時、「殺」意を完全に非倫理的な観念として否定することはできず、限定した条件においては 、現在においても生きたその必然性があるもの(と)見るのが冷静な判断なのではなかろうか。
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*2:
日本初? 群馬大医学部が大脳死症例を発表
自発呼吸あり 第9回日本臨床救急医学会総会
5月11、12の2日間、第9回日本臨床救急医学会総会が盛岡市内で開催され、群馬大学医学部救急部の佐藤 洋子氏らは自発呼吸はあるものの脳波が平坦な「大脳死」症例を発表した。
患者は59歳の男性で、意識障害のため救急搬送された。入院時血糖値404mg/dl、高血糖非ケトン性アシドーシス、急性腎不全、右肺炎、横紋筋融解症のためICUに入室したが、心肺停止となり、DIC(播種性血管内凝固症候群)も併発し全身管理、集中治療を行なった。全身状態は徐々に改善したが、自発呼吸はあるものの脳波は平坦波であり大脳死となった。10月4日に一般病棟に転棟した。
出典:佐藤洋子、荻野隆史、浜田邦弘、井原則之、飯野佑一(群馬大学医学部救急部)、森下靖雄(群馬大学医学部臓器病態外科学):異常高血糖のため大量のインスリン投与を要した大脳死の1例、日本臨床救急医学会雑誌 第9巻第2号p220(2006年)
当Web注:他人との意思疎通が困難な遷延性意識障害者や大脳機能が不可逆的に停止した状態を、「人格の死」と称して人の死とする考え方は、これまで概念として取り上げられることはあった。しかし、頭皮上から脳波を測定して平坦でも、頭皮下では脳波 の測定されることが多く、また優生思想にもとづく死亡宣告であるため、個別の患者について「大脳死」として発表する医師はいない。上記は日本初の大脳死症例発表ではないか。群馬大学医学部附属病院には「ICU長期在室者は医療費がかかるから治療に介入する」と第33回日本集中治療医学会学術集会で発表した医師もいる。

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