朝当直室で目覚めてみると、いつもの起床時間なのになぜか薄暗い。窓の外を見ると一面の銀世界。岡山でこの時期に大雪が降るのは大変珍しい。家に電話すると、子供たちは大騒ぎの様子。この子たちにとっても雪景色を自宅で見るなんて、殆どなかったことだろう。岡山では年に1度ほど2月頃に大雪になることがある。大雪と行っても積雪量は2〜3cm程度なんで、雪国からしたらチャンチャラおかしいレベルだろうけど、降雨量も少なく気候も温暖な岡山の町では、この程度の雪でも交通機関は完全に麻痺してしまう。車の雪を素手でかき分け、そろりそろりと車を走らせながら(FRゆえ)GSへ向かう。今日洗車する予定だったが、この雪では意味がなく断念。ガソリンを給油しながら、スタンドのねえちゃんもこの雪で大変だな、とか考えていると隣の車の兄ちゃんがJETSETのレコードバッグを持って「雪降ったら雪降ったでサイコー」と聞き覚えのあるフレーズを歌いながら、その姉ちゃんに「これ GAGGLE」とかいいながらレコード袋からGAGGLEのアナログを出してみせている。こんなくそ田舎にJETSETの袋もってGAGGLEの替え歌で明るくはしゃいでる兄ちゃんの光景にうれしさを感じる。ちょっと気分よくなっていたらGSのねえちゃんから「寒いのに窓開けて待ってていただいてすいませんね」といわれる。こちらも雪降って大変だねとかなんとか。「私は雪も寒いのも大丈夫なんですけど、他の人が大変なんですよ」。珍しい雪にみんな少しずつ幸せになってるみたい。
家に帰り遅ればせながらの最後の年賀状作り。いろいろこの一年北へ南へ出かけていて、デジカメでスケッチ代わりに撮りまくっているんだけど(2000枚とかのレベル)、意外に家族全員写っているものが無い。仕方なくというか急遽思いつきで、子供だけで雪に戯れてる写真を撮る。季節的にも良いだろうし、今日摺って今日中に出せば、明日あさってには市内なら届くので受け取った方も面白かろうと思い年賀状のテーマにする。
「自殺されちゃった僕」

吉永 嘉明 (著) 単行本 (2004/11) 飛鳥新社
日本初のサイケデリックムック「サイケデリックトランスハンドブック」や、青山正明との伝説的ムック「危ない一号」など、日本のサブカルチャー、ドラッグカルチャーに決定的な仕事を浮こなってきた吉永 嘉明の初めての単行本が出た。90年台初頭のジオイド〜イクイノックス、日本のトランスカルチャーの勃興と熱狂の中で、ドラッグと現実の狭間に苦悩し、葛藤していた、シーン当事者の記録と行っても良いだろう。現実を書き換える新しいパラダイムとしてのダンスとトランス、そして周辺的な様々な神秘主義的教義によるゴアトランスムーヴメントは、初めて参入した人間に対して強烈に今まで抱えてきた価値観世界観の再編を促す。物質主義より精神主義、具体性より抽象性・象徴性、そして正気より狂気を。サイケデリックドラッグは間違いなく日常の中で編成された通常の意識状態を超え、新しい認識、感覚の扉を開く。そして当たり前と思っていたこの世界の至る所に、超感覚の兆しを人は発見する。ドラッグによって捉えられた新しい可能性の姿は、またそれが錯覚なのではなく、まだ見ぬ我々の新しい可能性であることを直感とともに確信させる。そしてその確信がまた地獄への扉でもあることが、二重の困難となって秘儀参入者に覆いかかる。
特に一番悩まされるのは、対人関係の中に潜む秘密の一端を開示することにあるだろう。対人関係の中に潜む無意識的要素、これを対象関係論では転移逆転移、投影ー投影同一視と呼ぶが、様々な個人のコンプレックスやトラウマも同時に関係の中で対象に投影され、それがまた相手により同じプロセスを経て自身に投影されるという、無限のループ、フィードバックシステム、これをゴアトランスでは変成意識状態の中で殆どテレパシックなまでに強烈に体験させる。この謎二直面させられる人の反応は様々だが、この著書の中で彼を残して去っていった3人の人々は、特にこの問題について看過することができなかった人なのだと思う。才能のある人特有の対人関係に於けるセンシティビティーの高さは、秘密と同時に絶望ぎりぎりの感情を彼に抱かせる。鈍ければ鈍いほどグッドトリップができるという皮肉。俺はこの体験が神秘主義でいう死の体験=イニシエーションであることを、皆が理解するべきだと考える。この体験に寄って生まれ変わるという前提が無いことで、人はより混乱しているようにも見える。
それはつまり俺自身がそうだったから。この苦しみから逃れられるのに、本当に長い年月が必要だった。この秘密との格闘が俺自身の精神医学との格闘のスタートラインだった。
著者とは全く面識がないので何ともいえないが、この著者は持ち前の自己愛的な楽観主義でこれらの苦悩に気づかないようにしていた結果、ザバイブできたように見える。そして死んだ彼らはほんの少しのプライドの高さと完璧主義によって、残される人たちを見捨てあっち側へ行ってしまった。能勢さんの「共同性の地平を求めて」ではないがこの断絶からすべてを始めなくては行けないのだと思う。そして彼が訴える、自死についての慟哭、自らの苦しみの体験からなんとか自ら命を絶とうとする人を思いとどまらせようとする試みは、その意味でも彼が真摯に始められる本当の第一歩なのだろう。この本ほ感情的にも構成的にも混乱している。その混乱故にかれの苦しみ、思い、が伝わってくる。彼が今持ち得た、この楽観と紙一重な他者に対する共感を自死したかれらがもう少しでも持ち得たら、かれらの死は無かったかもしれない。
最後に一つだけ。彼がこの仲間の死を超えて、自分の体験した世界を否定しないことを望む。たとえそれがドラッグによって得た認識であっても、その真実性だけは揺らぎ無いものなのだから。問題は自己愛とのつきあい方、これにつきる。

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