運命との対決1。今朝から長らく居候していた図書室を引き払い、医局に戻る事にした。
splitの状況を自ら作り出していた事へは理解していたが、それを遂に手放す時が来た。
この場所には、長い間自分を守ってもらっていたと思う。自由に好きな事を考え、話す事ができる場所だった。
でも、既に自分には必要がなくなった場所。
ここに依存しなくてもやってゆく事ができる。
新しい自分への挑戦がはじまる。
午前。非常に難治な患者。7年越しの治療が実り、幻覚・妄想も消失、人間性を回復し、無為・自閉的な生活からも抜け出しつあり、患者のペースに合わせて、退院までの後少しの階段を登るまでに回復していた患者。いつも父親の妨害によって、治療が破壊される事を繰り返していた。対人緊張が強く、段階的な練習が不可欠な患者。しかし本人も自覚しており、患者を中心としたチームアプローチで、相談協力しながら、順調にしかも奇跡的な回復を遂げていた。父親が治療のイニシアチブが自分に無い事に立腹し、退院請求を申請する。その直後より患者は混乱する。「どれだけ恐ろしい事か判りますか?お前達を信じてきたのに、、直せると偉そうな事を言いやがって。。殺して下さい、、。最後に一言だけ聞かせて下さい。愛して下さい」。父親の一方的な愛情の押しつけが治療構造を壊滅的に破壊し、患者の心を破壊する。
昼。運命との対決2。死の罠。死の重圧に耐える。細心の注意と、精妙かつピンポイントの介入。最高にデリケートさが要求される仕事。
極限の一時間の神経戦。完璧なコンビネーションで、危機を回避する。
夕。他者の運命との対決。芸術家の息子。弟は洋服のデザイナーとしてチエンマイ在住。日本での凱旋ショーで成功を収める。この春父親と息子二人で展覧会。その準備中発症。偉大な父親とその後を追う子供。全てにおいて越えられない壁。
夜。運命と対決3。今後5年を見越した決断。納得のゆく話し合いができたか。ここからは未知の領域。
☆その他にも新規入院の患者、発症過程が不明でアプローチが難しかった人なんだけど、今日兄妹が患者が発症に至る過程を仔細に書かれた、友人のBlogを持ってきてビックリした。発症に至るまでの解釈が親友視点をもって書かれている。驚くべき内容。そしてBlogと言う分化が、確実に精神医療に関与してきているという現実がGoooood!!!!!!
☆松岡正剛の千夜千冊が凄い事になっている。
松岡正剛 千夜千冊
>>この数カ月、やはり「死」が去来する。べつだん体のどこかが悪いわけではない(いいわけでもない)。「死」について考えたいわけでもない(見ているだけだ)。勝手に向こうからやってくるだけだ。ただし、今回の「死」は「不在になる」とは何かという、ちょっとばかり重たい審問を伴っている。そういう奴を連れている。たいていは疲れはてて眠りに入る前のことだ。
これは尋常ではない。面倒くさい。
「不在になる」というのは、「自分が不在になる」ということで、この世から消えるということだ。そんなことが当たり前であるのはむろんよくよく知っている。歴史を見ても、まわりを見てもすぐわかる。だからふだんはそんなことを、考えすらしない。今度も注目したわけではない。ただ見ている。それにもかかわらず、「死」は昨夜も午前3時あたりにふうっとやって来て、「お前の不在を感じろ」と言う。困った奴なのだ。
>>「キリマンジャロは、高さ19710フィートの、雪におおわれた山で、アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で“神の家”と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばには、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍(しかばね)が横たわっている。そんな高いところまで、その豹が何を求めてきたのか、いままで誰も説明したものがいない」。
>>この話は、ヘミングウェイらしき作家のハリーが「おれは死にかけているんだ」という場面から始まる。右足に壊疽(えそ)が始まっていて、もはや回復の見込みがないらしい。そこで、ハリーはこう感じる。
「いま感じているのは、ひどい疲労と、こんなふうにすべてが終わりを告げたという憤りの気持ちだけだ」。
そう思えば、自分が才能を使いきれずに、そのかわりに才能を売りものにしていたと感じざるをえなかった。ハリーは少なくともエネルギーを売って生きてきてしまったのだ。その売り払ったエネルギーは戻らない。
こうしてまったく動けないでいるハリーの脳裡を、雪まじりの何かがたえずフラッシュバックする。それを「死の去来」ともいってもいいし、まったく同じ意味だが、「生の往来」といったってかまわない。
ハリーは煩悶する。ひょっとすると、これは「書くための」の生と死の戯れなのか。もしそうだというなら、最後の力をふりしぼれば、何もかもがひとつながりの文章に圧縮できるはずなのだが、きっとその時間すら残っていないのだろう。
いや、時間すら煩わしい。書くことは、体験することではなかったのだ。時間があって書いたからといって、それが何の代物なのか。書かなかったことだって体験だったはずである。それなのに、ハリーは書いて、削って、書いて、某(なにがし)かの体験を作ってきた。こんなはずではなかったし、しょせん、一生とはその程度のものでしかなかったのかもしれないし――。
そう感じた瞬間に、それ、向こうに「死」が動いている。去来する。いや、そいつが足元にやってくる。「不在」がやってくる。
「わずらわしいよ」と彼は大声を出して言った。
「何がですの、あなた?」
「なんでも、バカ長くやりすぎるとさ」
こうしてハリーは呟いた。「おれがいままでに一度もなくしたことのないたった一つのものは、好奇心なんだよ」。
「見ると、前方に、視界をさえぎって、全世界のように幅の広い、大きい、高い、陽光を浴びて信じられないくらい純白に輝いているキリマンジャロの四角ばった山頂がそびえている。そのとき、彼は、自分の行くところはきっとあすこだなと思った」。
これで、話が終わる。これが『キリマンジャロの雪』である。
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松岡正剛によってここで語られていることは、ヘミングウェイの紹介を通して、自分の死への態度を投影している言葉そのものではないか。遂に松岡正剛がここにきて本気の言葉を発し始めているのでは、と思える。70年オブジェマガジン「遊」、工作舎をはじめとして、日本の知に鮮烈な一撃を与えた松岡正剛。相似律をはじめ松岡正剛の提示する知は、中心を有さず、どこまでも多重にメタモルフォーゼしてゆき、魔術的な魅力を放っていた。そして権威づけられた知の体系を根底から揺るがす知的な驚きに満ちていた。しかしその松岡スタイル故に、どこか生きていることの壮絶さや、リアルさとは無縁のものであったし、どこかそういうものをさらけ出すことを無粋としていたのではないかとも思う。上のハリーの独白は、松岡正剛自身の独白としてみると、今まで見えなかったリアルな松岡正剛の姿が垣間見えてくる。
松岡正剛の千夜千冊/アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」

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