ネストリウス派キリスト教
ネストリウス派はコンスタンティノーブルの総司教だったネストリウス(Nestrious 380頃ー451)を創唱者とする宗派。アンティオキアで教育を受けたネストリウスは、キリストの神性と人性を区別し、長老アナスタシウスを支持して、当時人口に浸透していた聖母マリアに対する「神の母(テオトコス)」という呼称を退け、あくまでも「キリストの母(クリストトコス)」と呼ばれるべきだと主張したため、アレクサンドリアの総司教キュリロス(376-444)から激しく弾劾される。そして、431年エフェソス公会議で異端宣言され地位を追われる。ネストリウス派自体もまた、キリストに神性と人性を認めた451年のカルケドン公会議で異端とされる。やがて同派はペルシアやインドを主な布教地とするようになり、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。 唐の王朝は景教を保護したため、この時代は盛んであったが、唐時代以降は消滅した。後にモンゴル帝国を構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かったため、元の時代に一時中国本土でも復活した。ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。
景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。
ネストリウス派キリスト教wiki
さて、大秦景教流行中国碑という石碑が1623年西安で土中より発掘される。
大秦景教流行中国碑
オリジナルは西暦781年、唐の都・長安の大秦寺に建立されたものであった。内容は約1900字の漢字と一部シリア語で、旧約聖書にある天地創造、アダムとイブ、キリスト誕生など景教の教義と唐のへの伝来、太宗の時代から147年間におよぶ景教の中国での発展の歴史、60余人の宣教師名などが書いてある。
「粤若(こゝ)に常然たる眞寂は〔注3〕、先の先にして元无く、窅然たる靈虛は、後の後にして妙有す〔注4〕。玄樞を總べて造化し、妙なる衆聖の元尊を以てする者は〔注5〕、其れ唯だ我が三一の妙身・无元の眞主・阿羅訶のみならんか」
訳/「 およそ天主の不変の真理は、万物に先んじてあったがゆえに(それ以前に存在するものとてない)宇宙の根元であって、目に見えぬ天主の霊は、それよりはるか後に幽冥の海を覆いつつ霊妙なる存在であった。玄妙なる摂理を働かせて天地・万物を創造し変化させ、霊妙なる歴代の聖人が大いなる至尊と見なすものは、それこそただ我らが三位一体の霊妙なる御身・それ以前に存在するものとてない真の主・アラハー(=ヤハウェ)のみであろう。」
以下リンク参照
大秦景教流行中国碑頌
〜不滅の真理の道は、霊妙にして言い表しにくいものであるが、その働きと成果とは日輪のごとく明らかであるので、ここにしいて「景教(=太陽の教え)」と称することにする。〜
太陽の教え、とあるのが興味深い。三位一体の叡智、キリストを太陽と同一視している。
さて、この景教碑のレプリカが日本の高野山に建てられている。このレプリカを建てたのがイギリス人のE.A.ゴルドン夫人という女性。ゴルドン夫人(Gordon, Elizabeth A.)は1851年英国の名門に生まれ、多年ビクトリア女王に女官として仕えた人である。キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期には日本を訪れた。

E.A.ゴルドンは1851年イングランドのランカシャーに生まれた。後にスコットランドの貴族ジョン・エドワード・ゴルドンと結婚、共に名門として知られた家柄であった。ゴルドン夫人はヴィクトリア女王の女宮をつとめるなどしたが、のち、オックスフォード大学に入学、比較宗教学を学んだ。同門に日本入留学生高楠順次郎が居り、その交友が後に夫人と日本を結びつけるきっかけとなったと思われる。
在学中にアジア宗教学に興味を抱いた夫人は1891(明治24)年、夫との世界旅行の途次日本に立ち寄った。この滞在で日本の自然と文化と国民性に魅せられ、帰国後すぐ、創立間もないジャパン・ソサエティに入会し、英国在留中の日本人に何かと援助の手をさしのベ「英国における日本の母」ど慕われるようになった。
その後、高楠順次郎らから、日本に洋書が少ないとの嘆きを聞いた夫人は、英・米・カナダの新聞紙上で「英国の文化を日本に伝え、同時に彼我の親善を図るため、日本に洋書を贈ろう」と、図書の寄贈を呼びかけた。日露戦争による日本への関心が強まっていた時期と相侯って、たちまち10万冊に近い図書が夫人のもとに届けられた。夫人はそれを携えて1907(明治40)年再び来日し、高楠を介して東京市に公開を条件に図書の全てを委託した。束京市では、早速整理に要する経費として5375円75銭を議決してその厚志に応えた。
これを機会に夫人は日本に在留し、そのテーマとする「仏基一元」の研究にとりかかった。それは、仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようとするものであった。8世紀の頃、唐の長安に建てられた「大秦景教流行中国碑」の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環であった。研究の成果は新聞・雑誌に寄稿、著書の刊行も数冊に及んでおり、1925(大正14)年には名誉講師として本学の教壇に立ち、「比較宗教学について」「西遊記」などの講演も行なっている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/gordon/index.html
さてゴルドン夫人が何故景教碑を高野山に建立するに至ったのか。そのインスピレーションの源泉といえる
「弘法大師と景教との関係」という文章が残っている。霊的直感に満ちた非常に感動的な文章で、是非一読をお勧めするが、そのなかで彼女は日本文化における空海の影響の広大さを賛美する。そしてその中に民族、地域、歴史を遥かに超えた霊的な流れを直覚する。
『予が始めて大師を知りしは、嚴島=彼の神聖なる、美麗なる内海の一島=にてありき。予は一日彼の快絶奇絶なる深林を過ぎ、絶壁を攀ぢ、山の頂上に達して一の巨大なる聖火を見たり。こは實に予が世界周遊中に於て見たる最も奇異なるものなりき。斷木《マルタ》を燃せるこの聖火は、弘法大師が千百年前支那より歸朝せし時、此地に點火せし以來、曾て滅せざる所なりと云へり。予はこの木頭火に耶蘇教のユールロツグ(耶蘇降誕祭の木頭火)との間には思想の連絡あるを信ず、』

この丸太をを燃やす聖火の儀式とは12月31日の大晦日、行われる鎮火祭のことである。

そしてユール・ロッグ。これはキリスト教においてクリスマスに行われる聖火の儀式であり、クリスマス前夜に炉で焚いた大きな薪を用いて暖、明かりを採る風習であり、これが転じて現代でも馴染みの深い薪の形をしたケーキ、ブッシュ・ド・ノエルの起源になっているようだ。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/aoyama(2001)/group-g.htm
そもそも 12月25日という特定の日をイエスの誕生日とすることは西暦 350年に教皇ユリウス1世(Pope Julius I. アリウス主義を退け正統信仰を保護した)の治世時からで、然しローマ・カトリック教会系の百科事典 the Catholic Encyclopediaが認めていることは、『キリスト聖誕に関しては、教会や社会的基準に照らしても、尊敬すべき権威筋が、一年の内の或る特定の月をキリストの聖誕月だと割り当てたという事実はない』ということだ。
それでは12月25日という日はどこからきたのか。 前述のローマ・カトリック系の百科事典によると、『善く知られている無敵の太陽誕生の祝い Natalis (Solis) Invicti が12月25日に祝われていたことが12月クリスマス説に強い影響を与えたものと考えられる』とある。12月18日〜24日に祝われたローマのサトゥルナリア祭(古代ロ−マで12月中旬に数日間にわたり行われていた農神サトゥルヌスの収穫祭で、底抜けに明るい一種の祭りで、公務は総て中断され、罪人の処罰もなく、奴隷は解放されるという馬鹿騒ぎの祭り)や、12月25日に祝ったブルマリア祭があり、共に太陽神を祭る宗教だった。
太陽遥拝・太陽神礼拝というもは古代から自然に行われていた。 特に冬至は多くの古代信仰の神々の誕生日として守られ祝われていた。 トール(北欧の雷神で農業や戦争の神)、ディオニソス(ギリシャ神話の酒神で、ローマ神話ではバッカスに相当)、イシス(エジプト神話の豊饒女神)、アドーニス(ギリシャ神話の美少年で、愛と美の女神アフロディーテ、ローマ神話ではヴィーナスに愛され、猪の牙で殺された)、その他にも有名なミトラ(ペルシャ神話の光と真理の神でのちの太陽神)など多くの神々がローマ文化に対して大きな影響を与えていた。12月25日のキリストの聖誕祭とい儀式自体が異教の祭りであったということだ。
12月31日の大晦日、太陽が再生する前日に祝われる聖火の儀式、キリスト生誕の前日の同様の儀式。空海が厳島にてキリスト教の儀式と脈々と連関する儀式を行っていたとしたら。
またゴルドン夫人は続ける。
『この聖火に近く奧の院あり、此に參じてその幔幕及その前の懸燈に於て、叉斧(ダブルアツクス[#叉斧の図])の印章あるを見たり。
この叉斧は實にアリヤン時代以前に於て、地中海のクリート島=紀元前三千八百年アゲードのサルゴン大王の上陸せし島=に於て天神の表章として用ゐられ、天上の島を表せしものなりと謂へり。近時ドクトル、アーサーセー、イヴァンス氏がゼウス神(zeus 即太陽神)の生宮と稱せらるゝ岩窟、及クノソス(Knossos)の王宮(古來ミノトール(怪牛)の迷宮と稱せられし處)を發堀せし際、この叉斧の印を發見したり。さればこの紀章は歴史以前より廣く用ゐられたるものなるべし。』

この宮島の奥の院に叉斧(ダブルアックス/
Labrys)の印象があるのを彼女は発見する。これは
クレタ島のクノックスの宮殿で発見された印象であり、太陽神ゼウスの生宮である
クノックスの宮殿で発見されたもの。そして紀元前3800年アケードの去る龔大王がこの島に上陸した用いた印象というのだ。つまり空海は遣唐使にて長安より帰国した際、この宮島に漂着しクレタの霊統のもとにこの太陽信仰の神殿を建てたと幻視する。
そしてこの太陽信仰とは大日の秘教、『高きに昇れる旭日の如く國民を覺照し、=闇きに坐し死の影に住ふものを照し、=平和の道を導く=かの偉大なる光輝を證得したるものなり。而してこの光明を永久的に實現的に國民の眼球に映ぜしめ、人をしてこの祭火を照し經に依りて大毘盧舍那佛=一切處に遍滿せる大日=の教義を演暢したり。』、そして『ヒーブルー人はこの思想をイマニユーエル=我と倶に在る神=なる一語に依て言明したり、如是唯一神の實現を感ずるは耶蘇教に於ては最も貴重なる眞理なり。而して弘法は如何にしてこの美麗なる眞理を學得したるか、』と驚嘆する。ヘブライの叡智とキリスト今日の叡智、そして大日の秘教が空海の神仏湯和のなかで完全に体得され、それが日本人の魂の中に永遠に残る形で文化のなかに封入されたものが、京都の大文字焼きであり、厳島神社の鎮火祭だといっているのである。

空海が入唐し惠果阿闍梨より教えを受けた当時、唐では景教が隆盛を極め、大秦景教流行中国碑が建立されて23年しか経ておらず、間違いなく空海はこの碑を目撃し、インスピレーションを受けていたであろう事は想像に難くない。
弘法大師は支那より歸りて、嵯峨天皇の灌頂、即洗禮を爲したり
つまりフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来するより遥かに以前。日本には景教としてキリスト教は伝来していた事になる。
弘法大師と景教との関係 イー、エー、ゴルドン 原著
景教碑の謎

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