連休は
出雲大社へ行ってきた。
旧暦十月は神無月というが、これは全国の
八百万の神が出雲へ赴く為神がいなくなるので神無月と称するようになった。そしてこの期間、出雲では神在月という。つい最近までそんなことすら知らなかったのだが、現在出雲が八百万の神で満たされているとあれば行かずにはおれまい、ということで初の出雲大社詣でと相成った。

祭神は
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、七福神では大黒様と同一視される。日本の国作り神話は非常に複雑で、ここで簡単に説明するのは困難だし、その能力も俺にはないが、大和の国づくりの際にアマテラスら高天原にいた天を象徴する神々と対称的に、大国主/国津神は大地を象徴とする神格である。因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、
国作り、
国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。

また出雲大社の成立は垂仁天皇の時代、紀元前4年に出雲神宮造営とあるが、重要なのは
出雲国造家を襲名する一族によって祭儀一切が執り行われている点である。これは天皇家の歴史と神性を考える上で、天皇家と表裏一体の関係と言えるかもしれない。現在の出雲国造は84代千家尊祐。
神在月には、八百万の神が出雲大社を訪れる。その為に神々をお迎えする為の儀礼が神在祭である。全国の神々は陰暦10月11日から17日までの7日間大社に集まり、幽事(かみごと)すなわち人には予めそれとは知ることのできぬ、人生諸般の事どもを神議(かむはか)りにかけてきめられるのだという。男女の縁結びもこのときの神議りによるものであるという。大社ではこのとき神在祭を執り行う。本殿は一般参拝客は通常は参拝できないが、神在祭の間だけは本殿への参拝を許されるとのことだ。

当日は連休中ということもあって、結構な人出があった。また車も県外ナンバーが多く、遠くは九州熊本、名古屋なども多く見かけた。屋台が出るわけでもなく、こうやって神道的なるものの信者やファンが多くいるというのも印象深い。
また参拝者のなかには女性同士の旅行者の姿が多く見られた。
これは出雲大社の大国主が縁結びの神として信仰されているからで、実際参拝の列に並んでいても、女性同士の会話のなかにその悲壮な思いがかいま見られる様子が多々あった笑。
これは八百万の神が集まった際、この世の様々な目に見えない理、縁について様々な神議にかけるとの信仰からで、それが転じて縁結びになっているといえる。これは今風に言えばシンクロにシティーや因果と言い換えることもできて、非常に興味深い。

またこの神在祭の間は風波ははげしいのであるが、このとき海蛇が波に乗って稲佐浜に浮かび寄ってくる。これを「竜蛇さま」といって、八百万(やおろず)の神が大社に参集されるについて、祭神の使として来るのだと信じられ、祠官はあらかじめ潔斎して海辺に出で、竜蛇さまを玉藻の上にうけ、曲げ物に載せて大社の神殿に納めるのを例としている。
また竜蛇神信仰と言えばサーペントパワーについて連想するわけで、ここから転じて縁結びとなったのかもしれない。真面目そうな女性旅行者の方たちには破廉恥に感じられるかもしれないが。

本殿の神在祭は朝九時から執り行われ、10時にはあっさり終了した。10時とともに神官たちは本殿より退去し、神を伴ってお送りを行っていたようだ。

我々は残念ながら9時に間に合わず神在祭には参拝できず、また本殿を目にすることも出来なかった。

拝殿の建築は特徴的で、アシンメトリー構造をしている。これは宗教的建築としては珍しいものではないか。日本の侘び寂びのルーツの一つなのかもしれない。

神々の出雲集合の象徴としての龍蛇神のお迎えと、神在祭、そしてお送りとしての神等去出祭(からさでさい)。日本の神道の核心にはまだまだ多くの神秘的な儀礼が保持されているようで興味深い。また出雲を中心に国づくりの神話があるのも、大陸からの当時の日本への影響と捉えると、なかなかイマジネーションが広がって面白い。
当日は人も多く、八百万の神の霊的印象を感じるには準備が不十分といった感じであったが、神社の持つ静謐な感覚は堪能した。天津神と国津神の対立や、国津神のもつ根の国詣でや竜蛇神信仰などの陰の要素が充満した感覚は出雲独特なものなのかもしれない。今回を機に大国主とは縁ができたし、来年は前日あたりから挑みたい。また竜蛇神の迎えにも参加してみたい。そしてお伊勢参りもまた。

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