昨年に引き続いて、2度目のTomorrowlandへの参加を決めたのは、昨年から今年への、自分の体験の消化出来ぬ想いを成仏させるため、そしてまさにピークを迎えつつあるEDMシーンの終わりゆく姿をこの目に焼き付けるためだ。
昨年のTomorrowlandへの参加は掛け値無しに衝撃であったことは言うまでもない。
日本に戻って来て、オタクっぽいDJがやれDavid GuettaがDJが下手だったの、踊りよりも盛り上がるばかりで、などと批判じみたたレポートがあったが、全くピンと来なかった。何故なら俺はDevid Guettaのプレイの間じゅう白目を剥きながら踊り狂っていたからだ。記憶のないほどに。
David Guettaほど日本で過小評価されているアーチストはいない。EDM界の小室哲哉と揶揄されるルックスや、リアーナなどと早くからコラボレーションしているイメージが先行しているからと思われるが、それは偏見だ。
彼は2000年初頭からIBIZAでFu** me I'm FamousというIBIZA名物ともいえるパーティを長年に渡りオーガナイズしており、今のEDMのトランス、プログレッシブ、エレクトロハウスのごった煮なバレアリックテイストのスタイルの源流であり、オーディエンスを熱狂に巻き込む技量は素晴らしいものがある。
そのDJのスタイルはとてもワルい、ワイルドでトランスするツボを心得ている頼もしいものだ。最近のShowtekとのコラボレーションでの暴力的なまでの激しさは伊達ではない。昨年のTomorrowlandの個人的ベストの一つがDavid Guettaでだった。
EDMがその黎明期、マドンナがAvicciのマイアミでの初お目見えのプレイのオープニングで自ら紹介した際に、MDMAをみんなやっているかー!と煽ったことについて、Deadmau5が「俺たちのシーンを潰すつもりか、ビッチ」と噛み付いたその瞬間から、EDMシーンにおいてドラッグについて声高に語らないのが、不文律、マナーになった。もちろんEDMの本質はエクスタシーによる意識の拡大や共感覚、トランスすること自体にあるのだが、そこは自己判断でと、とオーディエンスに委ねることで、アルコールでも楽しめる構造にまでサウンド変化し、裾野を大きく広げた。
これは良し悪しの問題ではなく、21世紀のエクスタシー革命はむしろ神聖なものではなく、日常の延長線上にあることを意味する。アメリカの大麻開放運動もこの延長線上に位置するものだ。
EDMのサウンドを毛嫌いする、もしくは受け入れられない音楽ファンは多い。それは従来マニアックな音楽に深く沈降していたファンこそに多いようだ。俺からするとそれは音楽を表層や偏見で捉えているようにしか思えてならない。EDMと呼ばれる音楽はトランスミュージックの正当な嫡子であり、そのグルーヴでダンスしてみれば常に途切れることのないトランスグルーヴに貫かれているのだ。
EDMのトップアーチスト達。彼らが支持されるのは表層的なキャッチーさではなく、以下に新しい音像のクリシェを提示しつつ、深く激しくクラウドをトランスさせられるか、その点で支持されているのだ。
そしてファン達の耳はとても厳しい。毎週のように新譜はリリースされ、その消費期限はおおよそ2ヶ月。DJのセットリストは2ヶ月後には全て新譜に入れ替わっているほどだ。新しいパラダイムが次々に提示され、更にインスパイアされた曲が次々とリリースされてゆく。新しい才能が次々に様々なジャンルから参入してくる。これがこの1年のEDMシーンの状況だ。
(続く)

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