GWは出雲へ詣でてきました。
出雲への旅は2回目。前回は出雲大社の神在祭に参拝してきました。祈願成就のお礼参りの意味もあり、是非この機会に行ってみようと。
今回はよりディープに出雲を体験しようと、出雲風土記に出てくる神様、神社を中心に幾つか参拝してきた。
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出雲地方に上るに連れて、なかなかのプレッシャーを感じる。出雲は根の国といわれるだけあり、伊勢が天照大神を主祭神とする太陽信仰とするなら、出雲は黄泉、闇、死を象徴する。天津神と国津神という陰陽の2原論として対比され、日本の国作りに於いて天津神勢力に制圧され、大和に組み込まれたというどこか悲哀を感じさせる位置づけ。それが調べれば調べるほど出雲の神話には色濃く漂ってきます。数多くの神話も死を連想させるものが多く、この国作りの課程で出雲に数多くの血が流されたことを物語るようだ。
出雲では旧暦10月、一般では神無月だが、ここ出雲では『神在月(かみありづき)』と称して賑わう。この時期、全国の神々が出雲大社の御祭神、大国主大神の御許に集われ、諸々のご縁についての神議り(かみはかり=お話し合い)が行なわれる。地元の人々は神々のお話し合いの邪魔をしてはならいと、この時期を「お忌(い)みさん」と呼び、忌み謹んで静かに暮らしてきた。
この所以は神代の昔に遡る。日本の国を国づくりされた大国主大神は、その国土を皇室の御祖先神である天照大御神に国譲り≠ウれた。そして、目に見える世界である「現世(うつしよ)」は天照大御神が、目に見えない世界である「幽世(かくりよ=神々の世界・霊魂の世界)」は大国主大神が治められることとなった。
こうして大国主大神は幽世にて「幽(かく)れたる神事」を司られ、目に見えない様々な「ご縁」を結ばれる大神として八百萬の神々と共にお話し合いをなさる。この神在祭では一ヶ月の間、出雲大社に全国から八百万の神が集まり神議り(縁結びの話し合い、要はシンクロニシティについての話し合い!と理解)を行うのだが、実はこの神在祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行い11日から17日までが上忌といい出雲大社で、18日から25日までが下忌といわれこの
佐太神社で行われるのだ。また佐太神社だけは5月にも裏神在祭が執り行われる。この不思議。
出雲最高の霊格である出雲大社で過ごされた八百万の神が残りの日々を過ごされる佐太神社に俄然興味が沸いてくる。

佐太神社に到着した時間はまだ朝8時頃で人も少なく、その分非常に清々しい空気に満ちている。なによりその背後のカンナビヤマ(神名火山)を背後に臨んだたたずまいが素晴らしい。水田と住宅地の中に突然と現れる偉容、しかし質素な佇まいは古い日本人の慎ましさの美学を感じさせてくれる、渋い、のひとこと。
また神社それ自体が三殿並立の大社造り。本殿三社はいずれも大社造りで正殿を軸として南北の両殿を配置し、しかもそれを対照的にした発想に注目。ここまで完全なシンメトリー構造を有した神社は類を見ないそうだ。

主祭神は佐太大神。「サダ」とは伊予國の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で島根半島一円、いわゆる『狭田国(さだのくに)』の祖神であり、出雲國における最も尊く、古い大神のうちの一柱であるという。出雲の国には『大神』と呼ばれる4柱の神がおいでになり、杵築・熊野・能義、そしてこのこの佐太大神が出雲4大神とされているという。
この佐多大神も非常に謎の多い神様で、誕生秘史として母は神魂命(かむむすびのみこと)の娘の支佐加比比売命(ささかひ・ひめのみこと)、父は麻須良神(ますらがみ)と記される。佐太大神が生まれようとしていた時、弓矢が紛失する。支佐加比比売命が「この子供が間違いなく麻須良神の子であるなら、弓矢よ出てこい」と念じたところ、最初、角製の弓矢が流れて来た。しかし支佐加比比売命は「これは違う」といって投げ捨てる。すると今度は金の弓矢が流れてきた。支佐加比比売命はその金の弓矢を拾うと、「なんと暗い洞窟だろう」と言い、この弓矢を洞窟に射た。すると洞窟があかあかと輝いた。(カカと輝いたので、この地を加賀と呼ぶらしい)
これは洞穴という子宮の中で、金の弓矢という光の象徴が受精、陰陽の結合を示すプロセスと考えられます。象徴的意味合いに於いても非常に重要な場所なのではないか。
現在では3つの大社によって構成される佐太大社であるが、本来は佐多大神を祀る一柱で会ったに違いないとおもわれる。
現在の祭神は
正殿 佐太御子大神、伊弉諸尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
北殿 天照大神及び瓊々杵尊の二柱。
南殿 素盞鳴尊及び秘説四柱の計五柱。
明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を
猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としているようだ。猿田彦は天狗の元型とされ、神話の中のトリックスター的役割を果たす。天孫降臨で国津神と天津神を結ぶ重要な役目を果たし、また道祖神の元型ともされ、同じ道祖神の元型とされる素戔嗚尊(須佐乃男・スサノオ)=蘇民将来とも重なる。また猿田彦命はギリシア神話のヘルメスがモデルだとされるようだ。その流れでいえば、3柱の大社が一つになった構造もヘルメスに於いて繋がる。

その偉容を眺めつつ、裏山にある母儀人基社(はぎのひともとしゃ)へ向かう。新緑の香りを味わいつつ鬱蒼とした山道を登るとそのやしろは突然姿を現す。

磐座を祀ったすばらしいRAWな信仰の力にしばし言葉を失う。ここはおそらく古代祭祀の対象であり、これこそがこの神社の本体ではないかと思わせる。この社は安産、子宝の利益の信仰の対象であり、氏子の婦人会によって維持させているという。実は神在祭で八百万の神々がこの地を訪れるのは、神々の母であるい伊弉冉尊(いざなみのみこと)の大元の社で、陰暦十月は
伊弉冉尊(いざなみのみこと)が神去りました月で、八百万の神々は毎年この月になると当社にお集まりになり母神を偲ばれるのだとされ、この神在祭を「お忌祭」と呼んでいるのだという。

この母儀人基社(はぎのひともとしゃ)はこの地の母系信仰の大元であるかもしれないという出雲Creationの元型を幻視しつつ、しばし佇む。すると下の神社から神楽の音が聞こえて来るではないか。祈りを捧げた後、社務所を訪ねると神職さんがよってゆけという。そこでいろいろな話を聞くことができた。
ここで書くことが憚れることもいろいろとサービスでゴニョゴニョと教えていただいたが、神在祭については、元来出雲にはカンナビヤマといわれる山が4柱あり、そこに神が降臨されていたという。そこで神在祭の儀礼が行われていたものが、歴にの変遷と共に出雲大社へ取り込まれるようになっていったこと。また現在儀礼として古式に則った儀礼を有しているのは、佐多神社と熊野大社のみであることなど伝えられる。またこの佐多神社の特色ある祈祷、悪斬祈祷(あくぎりきとう)は五行の影響を強く受けており、剣を持って東、西、南、北、上、下を払うことなど、どうやら出雲のルーツにエジプト、シュメール系の霊統が流れていることなどが感じられた。
また最後にここには立派な舞殿があり、この佐多神社こそが神楽のルーツであるという。それは9月にある御座替神事・佐陀神能で特徴付けられ、その日に前後して神職による神降ろしの舞御座替と七座神事があり、7つの舞と12の神楽が演じられるという。
神楽の太鼓を奏させてもらったりいろいろと教えていただき、旅の幸先から非常にいい滑り出しになったのでした。
佐太神社HP
O M N I V E R S E-お伊勢参り
O M N I V E R S E-出雲大社へ

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