殴打された女性が死亡したそうだ。こういったニュースを耳にするたびに思うことがある。
ある日町で女子高生に会った。会ったといっても見かけてだけだが、その雰囲気が通常ではなかった。別にその子の生活の詳細を知るわけではないが、十代にしてすでに老成した雰囲気が漂っていた。友人と会話をしているその姿はごく日常の姿そのものだったのだが、彼女の身体からは老成した雰囲気が漂っていた。男として率直に言えば実に身持ちの悪そうな浅黒いその少女の、手垢と諦念で出来上がっている物語が剥落したその身体の風情は不気味であった。以前酒場であった女が同じような雰囲気を醸し出していた。その女は誰とでも寝る女で、私にも45分避妊具つきで安くするからと話し掛けてきた。小遣いが足りないのだという。寝る気は毛頭なかったので、その時はひたすらその女のヰタ・セクスアリスを聞いたのだが、その当時21くらいだったと思うその女は、すでに100人を超える男と寝ているのだそうだ。中学2年で、先輩の不良少年に誘われるままに処女を喪失し、その友人とも勧められるままに関係を持ったのだそうだ。その後の多くは「半分はウリで」というのが本人の弁だが、セックスに関しては断ったことはないそうだ。今でもはっきり覚えているが、その女からは感情を介入させない、ただ性欲を亢進させるだけの秋波が漂っていた。あの女子高生からも私は同じものを感じた。性欲からの展開ではなく、孤独感からでもない。自己を崩壊させることで、何がしかの再構築をしようと言うのでもないと、その女の言葉は語った。なぜといえば商品になるからで、それ以上でもそれ以下でもなく、とりたてた快感も生じないのだと言っていた。
恋愛やセックスは魔法ではない。通常のコミュニケーションの一環に過ぎない。セックスに関してはそれ以外に生殖ということもあるわけだが、ここに多大な幻想を抱いていてはいけないだろう。
人間が他人に直接接触するのは、一つには暴力であり、一つには愛撫である。それは触覚の持つ確からしさを以って対象を確認しようという行為なのだろうが、そこには強い感情の高まりがある。その昂揚感が日常の閉塞した自己を変形させ、変化させることは、人間性が静的なものではなく動的であることの現われなのだが、そのことによってこそ、非日常的な昂揚の中に日常的な安定があるのであって、過剰な重大視も問題だが軽視もこれは恐ろしいことになる気がする。
先日のニュースで性の弱年齢化によって恋愛や性に対するトラウマから、恋愛や性を拒絶したり、過大視するあまり、性的な行為以外のコミュニケーションが信用できなくなったりする弊害が報告されていた。神経的な快楽は誰にでも少なからず訪れるものだが、そこから想像性を持って飛躍させていくことは、成熟した精神性が必要になる。
昨今、若年層の過剰な暴力をよく耳にするが、あの酒場であった女の、ある意味特殊な雰囲気は、今世間に蔓延しているように感じる。コミュニケーションは厳密に言えば不成立なものだが、しかし他者という外的な刺激を媒介としなければ自己は成立しないのだ。こういった暴力や殺人のニュースを耳にするたびに、おそらくは無意識に身に付けているだろう他者との関係性のコントロールの能力を、彼らは喪失しているのではと考えてしまう。昔は性にまつわることは薄幸を嘆じ得ない物語があり、やや前には破壊によって自己を再構築したり、別な価値を構築したりする思想らしきものがあったが、現在においてはある種の風潮がそこにあり、それによって無自覚に、ある種物質的に行動しているのではないかというような行動が目に付くことがある。こういった事件が単に個人の事情に還元されずに、その根本的な問題が解決されるような情報の展開が望ましい。
「私は私だから」という個人主義が展開して、むしろ風潮主義・付和雷同主義といったような集団主義が形成されていて、目に見えないシナリオの中で脱力した演技が継続していくような社会集団が存在している。集団であっても他者の存在は希薄で、安易な内在しか自覚されていないような人格がそういった集団を形成する。またその集団は明確な枠を持ちえず、どこからが参加であるのかが不明確なのである。そのうちに彼らの中に内在する世界の個物は平等となり、物も人もその存在意義において大差がなくなってしまうのではないか。
決断せずとも、力まずとも人を殴れ、人を殺せる人類をこれ以上増殖させてはならない。