以前、佐藤聖二先生のご指導を受けるようになってから、太氣拳の特徴的な訓練である「練り」にも変化が現れるようになってきたと書いたことがある。
3〜4年前の記事だったと思うが、ここ最近は立禅が自主稽古の中心となってからは練りはあまりやらなくなっていたが、気が向いた時にやってみると動きが変わっていることに気付かされる。
動作中、指先、肩関節、股関節が一致して動くようになっており、それが理解できるし、速く動こうとか、その様な意識が出ると、この一致感が希薄になるので、繰り返しの中で修正することもできるようになっている。
練りの際の歩き方も片足立ちと両足立ちが交互に繰り返されるが、自然とどちらの状態でも構造の強度が損なわれない状態を選択するようになっている。
いわゆる単重と双重の転換を鍛錬することにもなっている。
以前のように単に歩きながら行うのとは少し違ってきている。
身法、迎え手、差し手といくつかに細かく分類される動作が全て共通の身体認識によって成されていくようで、それは、立禅による各種能力の発達段階によって異なるとも考える。
練りが試力のひとつとなって、全身が一致した状態で動けているかどうかをテストしている内容となっている。
立禅によって獲得された能力が豊富であればあるほど、練りの意義は高くなる。
反対にその様な能力が希薄であれば、如何に多くの時間を割いて練りを行なっても、それは変則的な動きを身に付けようとしているだけにしか過ぎなくなる。
但し、私の場合はその変則的な動きが組み手においては役に立っていたこともまた事実なのだが・・・。
特に歩法は重心を落としながらも円滑に動いたり、懐の深い独特の構えにて相手にとっての距離感を狂わせたりするという効果は高かった。
しかし、太氣拳の持つ本質はそんな瑣末なことではない。
練りの中で三角力、斜面力、螺旋力が適切に機能しているかどうかを点検してもよく、さらに抽身長手で出力できているか、股関節と肩関節、根節、中節、梢節の動きが一致しているか等を検証してみることで、その精度を引き上げることがより可能になると思う。
練りを通じてその本質に近付くためには立禅にしっかり取り組んで能力の養成に時間を割くべきであり、その能力を現実の場で使いこなしていくための独特の方法の多くが練りの中に散りばめられていると考える。
立禅を根とするなら、幹や枝、葉や花や実は、練によって養成される動きや、推手、打拳を含めた打撃などに相当する。
したがって、根により多くの栄養を送ってやらなければ、幹も枝も葉も花も大して育たないだろう。
枝葉ばかりをいくら手入れしても、太い根によってそびえ立つ大きな樹木にはなり得ない。
順序を入れ替えては育つものも育たなくなるので、そのことは理解しておきたい。
太氣拳成道会
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