組み手は、それに取り組む各人のテーマによってその内容が少しずつ変容する。
大会等で勝ち上がることを目的とするならばそのルールを最大限に利用するべきであるし、護身としての目的であれば後手必勝の無駄な攻撃は極力排除したものになるであろうし、相手を殺傷することのみを目的とするなら急所必殺攻撃の危険極まりないものになるであろう。
現代社会の道場内で行われる組み手は、大会、試合等で最大の成果を挙げるための模擬実戦訓練になるか、岩間先生の言われている各人のテーマを実際の攻防の中で確認する検証手段となるであろう。
そこで実際に対峙した場合、
各人の目的によってそれぞれが異なるテーマによってぶつかり合っている場合が多々あることを忘れてはならないと心得るべきである。
大会等を目的とした場合、ルール、グローブや防具、規制される技により攻防形態が少なからず変化するものだし、実戦ではあり得ない攻防も数多く現れるものだが、そこは割り切って、そのルールに徹しきらないと勝ち上がることは難しいだろう。
護身であれば、相手の戦闘能力を削いだ状態から自身はいかにその場から逃走するかという目的もあり、これも組み手の内容が大きく変わる。
殺傷を目的とした技を実際の組み手訓練で使用するなど、実際にあってはならないことだが、これもその使用を認めると組み手の内容は一変する。
それぞれが異なる目的に従って組み手でぶつかり合うのであるから、その結果は自身で評価するしかなく、ただ単に、相手を倒せた、何発当てた、ということだけが評価の対象にならないこともある。
澤井先生は組み手の評価として
「勝敗は己のうちにあり」と言っておられた。
自分で勝ったと思っても、相手が何ら敗北感を持っていない場合もあれば、反対の場合もある。
真の勝敗は他人の判断によらず、本人のみぞ知る、うそいつわりなきその本心の判断によるしかない。
いずれにしても、実戦ではないあくまでもそれに近付くための模擬訓練である。
王郷斎先生は
「実戦と散手(組み手)とは異なる。まず、実戦においては戦機が自由である」と述べておられる。
実戦では組み手や試合のように「はじめ!」の合図も何も無いわけで、それほどに実際のそれと組み手とは異なるということを念頭においておく必要がある。
したがって、組み手で相手に勝ったとして優越感にひたる必要も無ければ、負けたとして必要以上に落胆する必要も無い。
自分と周りを比較して一喜一憂することは放棄して、組み手の中でこれまで出来なかった動きや技が出せたことを素直に評価対象にするべきである。
私自身、実戦に対するこだわりはあまり無い。戦争でもない限り、武術の技を道場外で他人に実際に使用するなどは、普通の社会生活をまじめにこなしていれば、滅多に無いことである。
しかし、組み手を訓練科目から外さない理由は、特に古流武術は実技検証がなされないまま、その体系が形だけのものとして後世に伝わってしまう危うさが感じられるのと、相手と攻防するその場に身を投じる機会を自分に課しておくことは物事において胎をすえるという自己鍛錬でもあるし、現場で通用するはずもない夢想じみた技が実際に通用するかどうかを検証することで、自身の動きや技が、いざというときにも通用し得る水準にあることを保つためでもある。つまり、自分の動きや技が本当なのかうそなのかを知るためである。
組み手をやったからといって到達できるわけではない。組み手のみの専門家となることが目標ではない。
しかし、組み手でしか知ることの出来ない世界もある。
相手と対峙してぶつかり合う、その経験があると無いとでは、その後に展開される価値観、努力目標においてですら、天と地ほどの開きが出るのではないかと思うのだが、如何であろうか?
空手拳法成道会
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