大学1回生の夏休みはほとんど倉敷で過ごした。
夏休み中、毎週金曜日は地元の友達と必ず飲み会だった。
最後は帰りの電車賃しか持っていないので、終電が行き去った駅で始発が来るまで野宿。
今や「倉敷チボリ公園」のメインゲートがある倉敷駅北口は当時ノンビリしていて(今でもか?)、僕たちは酔っ払ってベンチで横になって朝が来るのを待っていた。(迷惑な話です。)
そんな中でも「MARU・Cheese」はこの夏にライヴを行い倉敷のケーブルTVでその模様が放送された。
(今考えると良くあんなヒドイ演奏を放送してくれたもんだと思います。)
夏休みがあけて「音楽友の会」の先輩たちとよく遊んでもらうようになった。
特にアキフミ・H氏の部屋は溜まり場になっていて通称「バラ邸」と呼ばれていた。
僕はその「バラ邸」でたくさんの時間を過ごすようになる。
そこで「音楽友の会」以外の先輩とも仲良くなった。
テラーマン氏やヤン氏、当時サークルに入っていなかったキム氏もそう。
その他にもたくさんの先輩を持つことが出来たのは「バラ邸」のおかげである。
そしてこの「バラ邸」は家主がアキフミ・H氏だったにも拘らず、家主よりもズットこの部屋にいた真の主がいた。
今や伝説のヴォーカリストの Y木氏である。
僕は当時、弁当屋さんでバイトをしていて、閉店前に多めに唐揚げなどを揚げてよくこの「バラ邸」に差し入れをしていた。
大学の学園祭が近づいていた。
僕はbonyと共に「UNICORN」のコピーバンドを組もうとしていた。
が、様々な問題が発生していた。
まず、学祭で演奏するための場所が確保されていなかったのだ。
各サークルがそれぞれ学校内の教室を借りるのだが、その申し込みが夏休み前に終わっていたのだ。
僕は学祭の実行委員会のところへ行き交渉した。
そして何とか教室は借りられたが、その教室は学校の一番スミっこだった。
机も移動が出来ない固定式のものであった。しかしその条件は諦めるしかなかった。
次に自分のバンドだった。「UNICORN」のコピーをするにもメンバーは僕とbonyだけ。
ヴォーカルギターとドラムだけでは何ともならない。ライヴをするのは2日間。
そこでギターは2日間ともデック氏に頼んだ。
キーボードの1日目はクラスメイトだったJ子とその友達のJ子に無理矢理お願いした。
(二人とも名前がJ子だった。)
2日目のキーボードは先輩のまーぼー氏。(Cypherの作詞でもお馴染み)
ベースが最も問題だった。
2日目は祝日なのでデック氏の同級生だったマコさん(元RANDOM)が引き受けてくれた。
1日目のベーシストが見つからなかった。聞けばこのサークルにはベーシストが一人もいなかった。
しかもベースを持っている人がいなかった。とにかく僕はベースを購入することにした。
この時に購入したのが
FenderJapanのPrecisionBassだった。
そしてデック氏が一人の男に連絡を取ってくれた。
その男が僕のバイト先にベースを取りに行くから準備しておくようにデック氏から連絡を受けた僕はバイト先にベースを持って行った。
デック氏の話によると「音楽友の会」の部長さんだとのこと。この時初めて僕はこのサークルに部長がいることを知った。
バイト中、弁当を売っているとその男は現れた。現
Coopeeの(ぶ)氏だった。
少しの会話の後、(ぶ)氏はベースを背負いHONDAのクラブマンにまたがって去って行った。
これが(ぶ)氏との初めての対面だった。
学園祭前、たった一度の練習を太秦の「あ・あるスタジオ」で行った。
真夜中にスタジオにいられるだけで僕は楽しくてしょうがなかった。
倉敷のスタジオとは雰囲気が全然違っていてバンド活動している気分に存分に浸ることが出来た。
そして遂に学祭当日がやってきた。
3回生は(ぶ)氏、デック氏、まーぼー氏、 Y木氏、健氏、アキフミ・H氏。
2回生は殿下氏、かずや氏、T-MAN氏。
1回生はbonyと僕。
そしてJ子が二人、マコ氏、D5氏。
4回生はいない小さなサークルのライヴが始まろうとしていた。
そして教室の黒板には何故か「音楽友の会 だっちょキング」と書かれていた。
あぁ、このサークル「だっちょキング」って言うんだ。へぇ〜。

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