日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (2)日本の原子力発電 2  政治のはなし

2 エネルギー政策としての原発立地政策研究
 さて、原子力発電が社会問題として広く認識され、高い関心を集めていることについては、よく知られている。原発をめぐって、安全か危険か、また必要か不要かという論争が繰り広げられることはしばしばである9)。そして、これまでもさまざまな角度から原発に対するアプローチが行われ、優れた研究がなされてきた。そうした従来の原発へのアプローチの方法の中にあって主流となってきたのは、国レベルの視点から国家のエネルギー戦略を分析したもの、すなわち「中央政府のエネルギー政策」としての原発問題へのアプローチであった10)。
 原子力発電を日本の総合的なエネルギー政策の一環として位置づけ、通産省をはじめとした政策担当者の視点から、原子力エネルギーのおかれた状況について他のエネルギーとの比較の上で考察すれば、日本(政府)が原発に大変重要な意味を与えていることが日本の原子力行政の特徴として浮かび上がる11)。そしてその主張の中心となるのは、75年の総合エネルギー対策閣僚会議での決定に見られるように、「日本は、経済の安定成長のために、石油の安定供給と石油代替エネルギーの開発という政策課題を設定し、この目標に向かって努力している」という点であり、それゆえに原発は、石油代替エネルギーの1つとして、石炭、天然ガスと並んで重要なポジションに位置づけられ、さらにその準国産資源としての性格から少資源日本の「切り札」であり続けたのであるとされる12)。このように、中央のエネルギー政策という点から原発を理解すれば、国(具体的には通産省)の設定する政策目標を実現するための手段として原発が位置づの安定的確保」という1つの客観的な「国益」と呼ぶべき基準に求められるのである13)。
 ただし、「日本においては原発が国家戦略の切り札であるために、立地が進められてきた」というだけでは、日本において原発が着実にその数を増やしてきた理由を説明したことにはならない。というのも、「省エネルギー」「石油代替エネルギーの開発」といった日本の「国家目標」は、実はオイルショック以降の先進国にとっては共通の政策課題であったのである。しかし結果は、国によってエネルギー政策にはばらつきが生じ、石油代替エネルギーとしての原発の推進にも順調な国とそうでない国とが生まれた。日本はその中で、上記の政策課題を比較的うまくクリアし、原子力政策も決定から実施まで順調に進められているとされる。そこで、この目標の「達成度」を国際的に比較し、各国間の制度配置の相違からその達成度を違いを説明するのが、第2のアプローチとしてあげられる。コーヘン、マッカビンズとローゼンブルースは、日米の原子力政策を比較して、日本の原子力がアメリカに比べて急成長した理由として、反対勢力が政策に関与できるポイントが少なくまた行政手続きが簡単なために原発のコストが低いこと、急激に電力消費が伸びたこと、自民党一党支配と保守系知事によって必ず運転できることが保証されておりリスクが小さいこと、などをあげている14)。また、フェイゲンボウム、サミュエルズとウィーバーは、先進5力国(日本・アメリカ・カナダ・フランス・西ドイッ)のオイルショック以後のエネルギー政策の違いを、各国のスタート地点の違いと政治制度の違いによって説明する。ここではとりわけ政治システム内部の「拒否権地点(vetopoint)」の数と有効性が重要とされる。そして日本は、一党優位政党制と中央集権制、非活動的司法と自律的官僚という制度条件によって、換言すれば、強い大統領と自律的官僚制などを特徴とするフランス同様に拒否権地点が少なく有効性も高くないということで、民間セクターによって省エネル
ギーと高い経済成長を同時に達成し、エネルギー源の多様化に成功したと分析され、原子力エネルギーの順調な伸びも、たとえば西ドイッでは議会や司法を通じて原発問題が噴出したためにその実施が困難となったことと比較した上で、こうした制度的背景によって理解されるべきであるとされるのである15)。
 しかしながら、このような国レベルのアクターにのみ焦点を当てたアプローチでは、立地地域における実際の動きを説明できない。確かに、日本において稼働する原子炉の数は順調に増加するが、しかし現実には、先に触れたように、新しい地点での原発立地は70年代以降事実上ストップがかかっており、60年代に計画されたサイトがやっと80年代に完工したり、70年代に立地が進んだ地点で新たに増設を行うことによってかろうじて新しい原子炉の設置を達成したりと、政府の原発立地政策そのものが政府の高い能力によって一貫して順調に進んでいるとは言い難い。すなわち、原発建設はコストや時間の面で必ずしもスムーズに進んでいるとはいえず、しかも原発建設についての対応は地域ごとにまちまちである、という現状を理解するためには、こうした国レベルの視点だけでは不十分であると言わざるを得ず、このような制度比較からの原発問題へのアプローチは、日本で国家としての原子力政策が強力に推進される可能性は提示し得ても、実際に原発が建設されるその現場での政策の有効性を確認することまではできていない。これを可能とする方法の1つとして、筆者は本稿で「地方」と「政治」に注目する。これについては次に紹介するラスビレルによる北海道電力泊原発建設過程の研究が示唆に富んでいる16)。
 ラスビレルは、従来の日本の原発政策研究が、政策実施構造の分析を意識しすぎることを指摘する。この従来のアプローチによれば、日本が西欧の流れと対照的に70年代から80年代にかけて着実に原発を増加させてきたのは、日本の官僚構造、法的・規制的枠組、補償制度によって、政府が原発推進という目標達成を容易に実現できたためだとしているとする。しかしこれでは、なぜ建設にかかる時間と経費が格段に増加しているのかを説明できない。そこでラスビレルは、アクターが各々の動機づけやその時置かれていた状況によってとった行動を重視して、原発政策の実施過程を分析する。ケースとして選ばれた泊原発の建設には、84年の認可までにi6年の歳月がかかったが、これは2-3年のリードタイムで済んでいた60年代と比べるときわめて長く、また補償にかかった費用も大幅に増加している。ラスビレルは、このように泊原発の建設が進まなかった理由を、当初は北海道電力も自民党も原発建設についてはさほど積極的ではなく、また地元町長にとっては原発建設に反対する漁協と社会党を無視できなかったためであるとする。それが70年代の半ばごろから、将来的な電力供給不足を予測した北電が原発開発の方向へ動いたことに加え、ソ連の200海里水域設定のあおりを受けて沿岸漁業振興のための資金が必要となった漁協にとって補償が魅力的に見え始めたこと、そして補償交渉を後押しする形で電源三法が整備されたことなど、アクターを取り巻く状況が変化したために、原発建設が可能となったとラスビレルは分析している。そして、中央政府にとって有利な政策実施構造があったといえども、実施レベルでの中央政府のコントロールは間接的でしかないために、実施現場のアクター間での相互作用の結果生じた中央政府との視点のズレが中央政府の目標達成を抑制したと結論づける。
 ラスビレルのこの研究は2つの点で重要な指摘を行っている。まず第1に、日本の原子力政策が、制度としては中央政府の目標達成、すなわち原発建設推進に有利なようになっているとはいえ、それが必ずしも円滑な実施に結びつくものではないということである。第2に、中央政府の目標と実施現場のアクターのそれとが一致するとは限らないということである。そしてそれゆえに、実施段階での「拒否権」を持つ関係者が、中央政府の目標達成を抑制するということが、泊原発のケースによって報告されているのである。
 よって本稿では以下、地方アクター独自の動きと中央政府のエネルギー戦略との関係について考察を進めるにあたって、地方に与えられた拒否権に注目し、受入れの段階における地方独自の原発政策への関与が存在することを明らかにすることを目指す。
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