日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (4)考察  政治のはなし

W 考察

1「原発問題」への3つのアプローチ
(1)エネルギー政策としての原発問題
 まずはじめに、「エネルギー政策としての原発問題」という関わり方をするアクター群を認めることができよう。ここに登場するアクターは、通産省や電力会社といった、国家のエネルギー政策に深く関係しているアクターである。また、科学技術庁や、原発推進を支持する学者グループもここに含まれよう。このアリーナにおいては、原発は国家のエネルギー戦略のための手段の一部であり、電力の安定供給を中心とする技術的側面から原発問題へのコミットメントが行われている。そのため、その主張も電力供給にとっての原発の「必要性」を前面に打ち出したものとなるのである48)。
 こうした特徴をもつアクターをここでは「原発テクノクラート」を呼ぶことにしよう。梶田孝道によれば、テクノクラートは、社会システム内の諸主体の利害を規制・調整しつつ社会システムの構造的危機を解決していくような、専門的能力と能動的主体性とを具えた存在として定義される。そしてテクノクラートは、社会問題をコスト最小化・利益最大化という「経営問題」「最適化の問題」としてとらえ、政策の「体系的整合性」を追求するのであり、地元住民の「生活者の視点」からの直接的・具体的な利害や要求も「全体的」文脈の中で相対化されて理解されるのである49)。このテクノクラートの正統性の根拠は、シンボルとしての国民全体の利益=「国益」を代表するということからくる優越性の主張であり、それゆえに利益団体や個別官庁の特殊利益の要求に対抗することが可能となる。その国益の追求を可能たらしめるのが、トップ・エリートが元来持つ制度的遮蔽性と、専門知識・技術の独占に由来する自律性であり、それに加えて制度化されたリクルートメントや昇進によってその社会の影響からの遮蔽性が一段と強化される50)。
 このようなテクノクラートが、どのような形で原発立地政策に関わっているのだろうか。エネルギー政策はその性質上、専門的な知識や技術、また国家的かつ長期的なビジョンが不可欠であり、原発問題をエネルギー政策の一部として捉える場合、その決定についてはテクノクラートによって独占的に行われることは確かであろう。しかしながら、(エネルギー戦略の一部としての)決定の実施にあたっては、その遅滞によって決定そのものが影響を受けており、むしろその「遮蔽性」は脆弱であり、従ってテクノクラートの高い能力が貫徹していないということになるだろう。そこで、このテクノクラート主導のエネルギー政策の領域とは異なるものとして、実施段階、すなわち地方における原発立地政策について考えてみる必要がある。

(2)イデオロギー領域としての原発問題
 ところで、国レベルにおける原発立地政策について、エネルギ7政策としての原発政策と対置される形で、原発に対するイデオロギー問題としてのコミットメントという第2の側面も存在する。これは、原発技術の軍事的転用の危険性から(少なくとも現在のような原子力行政下では)原発の建設や運転を容認しない、というものであり、それゆえにここでは、原発の安全面での論争や、エネルギー源としての原子力開発という問題設定は、副次的なものになっている。ここに分類されるのは社会党(とりわけ左派)である。また、共産党もこのアクター群に加えられようが、共産党はあくまで原子力の平和利用には賛成であるという基本姿勢から、国政レベルにおいては原発の問題については積極的に関わってこなかった51)。
 その社会党の政策決定については、しばしば「左翼バネ」によって特徴づけて論じられてきた。すなわち、1950年代に「護憲・平和」を前面に打ち出して「構造的反対派」として着実に国民からの支持を獲得した左派の自信が、党勢の凋落が指摘されるたびに頭をもたげ、党としての変革の動きを妨げる「呪縛」として長く機能し続けた、というものであり、西ドイツ社会民主党のゴーテスベルク大会における現実路線への大転換(59年)と対照的に語られてきている。そして事実国民は、「平和の党」「チェック政党」としての役割を社会党に期待していたのであり、社会党が、その党組織の弱さにもかかわらず幅広い層の支持を得て野党第一党の地位を確保することができたのは、そのためであった52)。このような社会党の政策決定を、谷聖美は「イデオロジカル」な決定と「プラグマティック」な決定に区分する。そして、自衛隊や対韓政策、原発といった問題は、二者択一的性格を有しているために妥協が困難であり、そのためにイデオロギー的立場から演繹的に議論が行われ、決定過程を紛糾させやすいことを指摘する53)。
 原子力三法成立の経緯:からもわかるように、社会党ももともと原子力の平和利用には積極的であったのだが54)、60年代になると社会党は、原発を「技術的にアメリカに従属して核物質の軍事利用の危険を潜在させているのみならず、しかも技術開発の負担は国が背負い、企業化された場合の利益は大企業の懐へはいる仕組みとなっている」55)として「大企業原子力産業グループの大型動力炉の導入については、(中略)安全性、経済性の実証されない現在においては、あくまでその導入に反対する」56)という方針を示し、次第に反対の立場を明確にしていく。この背景には、地方の反原発運動からの突き上げがあった57)。そして、社会党の左派支配が強まっていくに従って、社会党のイデオロギー的傾斜およびこれと並行した原発問題のイデオロギー問題化が進んでいったのである。こうして社会党は、70年代には原発の即時運転停止を求めるという方針を採用するようになる。
 これに変化が起きるのは、飛鳥田一雄委員長時代の社公民路線である。3党間での協議を進めるうちに、社会党と公明・民社両党との間には、自衛隊、安保、朝鮮半島という基本政策上の深い溝が存在することが次第にはっきりと表面化してきており、原発問題もその1つであった58)。そしてこのころから、社会党内で「現実路線」を主張して運転中の原発の容認を唱える声が大きくなり、「容認」グループは、党の政策審議会(政審)資源エネルギー政策委員会を中心に党の原発政策への批判を強めていく59)。この動きを牽制すべく、原発立地県の地方議員が中心となって80年頃から反原発全国組織結成の動きが起こり、82年には「日本社会党原発対策全国連絡協議会(原対協)」が設立され60)、科学技術庁・通産省資源エネルギー庁への申し入れや、政審科学技術政策委員会や国民運動局を通じての党中央への働きかけを行うようになった。こうした緊張関係が一気に表面化したのが、「原発大会」と呼ばれる85年1月の第49回定期全国大会であった。新しく策定された「中期社会経済政策」中に運転中の原発容認ともとれる一文が存在し、これをめぐって激しいやりとりが繰り広げられたのである61)。このような党内対立の火種を抱えていた社会党であるが、この時期の党全体の方向性としては、「現実路線」への模索が続けられる一方で、中曽根「軍拡」政権の一連の「反動政策」に対抗すべく、「護憲・平和の党」としてのアイデンティティを強く打ち出さざるを得ない状況におかれていた62)。すなわち、ハイ・ポリティクスこそがこの時期の社会党にとって重要な政策領域であり、原発政策に関しても、反核運動との関連から打ち出してきた「原発容認せず」という路線を、少なくとも表面上は維持し続ける必要があったのである。しかしながら従来からのこの路線を前面に押し出すこともまた、上述の党内事情からはばからざるを得なかったのである。
 ここに、80年代前半期において、原発政策が国政レベルにおいて争点とならなかった1つの原因を求めることができる。すなわち、社会党が「原発反対」の姿勢を容易に変更できず、かといってその姿勢を強硬に打ち出すわけにもいかないというアンビバレントな状況におかれていたために、原発政策において明確な態度を示すことができなかった。そしてこれは、中央の政策決定過程において原発推進勢力に対抗するまとまった政治勢力が存在しなかったということを意味する。
 一方、地域での原発反対運動の中心となったのは、放射能によって漁場や農地が汚染されることに危機感を抱いた漁民や農民であった。電力会社と漁民・農民との協議は平行線をたどり、建設のためのリード・タイムが長期化していく。このような漁民、農民の運動を支えたのが、県評や地区労の労組活動家であり、彼らの多くが原水禁(原水爆禁止日本国民会議)運動63)に深く関わっていたこともあって、また当時の大学紛争などの流れから、漁場や農地を守る運動という生活防衛的性格をもつ原発反対運動は、反核・平和の運動とのリンクを強めていく64)。このように、地域での原発反対運動は元来イデオロギー色の薄いものであり、強いイデオロギー的要素を背景とした社会党中央の原発政策とは性格を異にするものであった。また、社会党そのものの歴史的性格も少なからず党としての反原発への取り組みに影響している。もともとが無産主義政党の幅広い連合体として成立した社会党ゆえに、地方組織の性格はその歴史的経緯によって多様であり、地方における運動について、党として中央集権的な統制を行うことはきわめて困難であったのである65)。原発問題で反対の立場から強硬な姿勢を崩さなかったのは、原対協に代表される、原発が立地あるいは立地が計画されている地方支部の動きであったのだが、この原発反対闘争についても地方の自主的な動きに委ねられていた66)。そしてこれゆえに、エネルギーの源泉を地域の生活防衛的な意識に求める原発反対運動が、社会党を媒介として国政レベルで、また全国的に争点化を図ろうとしても、そのパイプ役としての機能を社会党が十分に果たし得なかったという可能性を示唆している。
 以上を整理すると次のようになる。原発問題に対するイデオロギー的アプローチをとるアクターが存在し、その中心となっていたのが、最大野党たる社会党であった。しかしながら、この方面からのアクターは、政策決定過程に十分な形で参加してこなかった。その原因として本稿では、当時社会党の抱えていたジレンマと党組織の特徴ゆえに中央での争点化が困難であり、それゆえに運動は地域闘争に限定されたと考えた。
 ただし、社会党と原発政策については、谷によっても指摘されているように、イデオロギー的政策決定が必ずしも左右の党内派閥対立に直接結びついたわけではなく、さらにいえば、原発政策が社会党にとってイデオロジカルなイシューとしてのみ扱われたというわけではない。党内には、電機労連出身議員などから、むしろプラグマティックに原発問題をとらえようとする動きがあり、それが党が社公民路線を選択し「現実化」をはかろうとする流れの中で「原発容認」勢力として表舞台に現れるようになったのである。ここでは、原発をめぐる党内対立は、イデオロギー対立ではなく、原発政策のもつイデオロジカルな部分とプラグマティックな部分との葛藤であったということもできよう67)。

(3)地域振興政策としての原発問題
 第3に、中央でのエネルギー政策を「実施」する地方アクターが、独自のサブカテゴリーを形成している。その特徴は「地域のため」に原発にコミットメントをはかるという点にある。自治体首長や地方議員がそうであるし、地元住民の中で原発のもたらす補償や雇用などによる経済効果に期待する人々もこのカテゴリーに入る。また、政党(とりわけ自民党と民社党)や地方経済界を中心とした原発推進勢力も、原発のもたらす「効果」に期待する。さらにいえば、原発が来ることで漁場が汚染されたり生活環境が破壊されたりするという不安から原発建設に反対する(あるいは消極的評価を与えている)地元住民も、原発の「地域へのマイナスの効果」への関心であるとすれば、このカテゴリーに含めることが妥当であろう。こうして、地域での原発をめぐるコンフリクトは、原発を地域に導入することによる地域振興効果についての見解の相違という次元に収敏する。とりわけ、原発立地が直接自身の生活に大きく結びついて影響を及ぼす市町村レベルにおいては、その傾向が強くなると考えられる。
 この文脈においては、原発立地は地域の産業発展と福祉の向上を地域外から資本を導入することで実現しようとする「外来型開発」の一形態として理解することが適当となり、こうした開発の是非、あるいはこの開発を進める際の条件をめぐって、アクターが決定過程に参加しているということができよう。そしてこの視点から原発を見れば、原発は地域にとっては少なくない雇用68)や税収増をもたらし、しかも不況に強い「優良企業」であるといえよう69)。
 大飯町においても、原発受入れによって危機的であった財政状況は一気に好転した。その要因としては、地方税収入や交付金収入が急増することが主としてあげられるが、そうした財政制度が地方自治体にとって原発を受入れるインセンティブとなっているという指摘は、これまでにも数多くなされてきた。小林良彰と石上泰州は、「原発の誘致は受入れ地域に利益をもたらす」という論理が、推進側(政府・電力会社)と受入れ側(自治体・地域住民)との間に了解事項として存在していたとして、日本の原子力政策が着実な推移を示した背景となるこの論理について、新潟県柏崎市や福島県大熊町などの財政を分析することによって検討を行っている70)。その結果、現行の財政制度では、原発立地自治体は、電源三法などによる巨額の交付金や、固定資産税収入、電力会社からの寄付金・協力金が入ることで、自治体の財政状況が一気に向上することが示される。この効果には限界があることが問題点として指摘されてはいるものの71)、地方自治体が原発立地を受入れるインセンティブとして、財政効果が重要であることがここで示されているのである72)。
 ただし、この原発の財政効果に焦点を当てたアプローチにも限界はある。ここで分析の対象となっているのは立地市町村の財政であり、確かにこのような原発受入れによる直接的な財政的・経済的効果に期待した地域振興という立地地域イメージは、70年代に原発を取り巻く環境が大きく変化する以前の原発受入れ(誘致)についての理解については有効であったと考えてよいであろう。それは原発だけに限らず、過疎と財政危機という2つの困難な問題に直面した地方政府が、外来型開発に「後進性からの脱却」の夢を託す光景は、全国いたるところで見ることができた73)。「史上最大の陳情合戦」といわれた新産業都市地域指定をめぐる過程はその典型である。このような地方政府の行動はしばしば国の産業立地政策の「合理性」を逸脱させる結果となったが、大嶽秀夫によれば、補助金獲得をめざす地方政府が国の産業政策のための重点投資を負担するように(意図はともかく結果的には)国が地方財政を操作したということができ、これは中央政府と地方政府との政治的・経済的リソースの圧倒的差の反映であるとされる74)。しかしこの枠組みは、80年代における原発立地政策には通用しない。地方が先を争って原発を誘致する時代はすでに終わりを告げており、むしろ地方が原発立地に抵抗することによって、中央の立地計画は困難をきわめ、逆の意味で国の産業立地政策の「合理性」をゆがめる結果となったのである。
 ここで大飯原発建設の一連の過程に注目しよう。1・2号機増設の際には、基本的に町、県と国との間に大きな認識の違いはなく、原発立地を進めたい国と、それを受入れることを肯定的に評価する町・県との間で、手続きはスムーズに行われた。しかしながら、80年代に入っての3・4号機増設の過程では、町においての反対運動は弱体化しており、また社会党や共産党の議会内での勢力も増えてはいないにもかかわらず、手続き自体にはより長い時間がかかった。この原因はどこにあったのか。筆者は、手続き上地方自治体が持つ「拒否権」、とりわけ知事の持つ最終決定権に注目する。中川知事は、原発立地そのものによる直接的経済効果には多くを期待していなかった。むしろ、原発受入れを足がかりに、国に対して嶺南地域振興への協力を求めたのであり、原発はいわばそのための「バーゲニング・リソース」であった。そしてこの知事の戦略の追い風となったのが、原発の新規立地が大変困難となっており、すでに立地している地域が地域振興に成功していることが国としては不可欠であった、という状況である。また、町としても、原発受入れはあくまで町振興計画のための財源確保のための手段であったという色合いが強い。こう考えると、原発受入れにあたっては、アクターは原発そのものの直接的効果を第一義的に期待したのではなく、原発に付随するさまざまな制度が手段化されてアクターに受けとめられていると考えることが妥当であろう。このような現象は、原発が「迷惑施設」75)となった結果、それぞれのアクターにとっての「バーゲニング・リソース」あるいは他の政策目標達成の手段として、原発に対する意味づけが変化したために生じたということができる。
 もっとも、こうした制度自体は、原子力開発が始まった当初から基本的には変化していない。しかしながら、そのような制度的側面は変化せずとも、それを取り巻く環境が一変したことによって、すなわち原発の立地は進まないが建設計画は進むというジレンマが強く現れるようになったことによって、地方アクター(とりわけ最終決定権を有する知事)の手続き上の拒否権の有効性が格段に高まったのであり、その変化に応じてアクターが戦略を変えて行動した結果として、70年代を境とする日本の原発立地政策の転換が起こったと考えられるのである。なお、こうした「迷惑施設受入れ」から見た地域開発については、他のいろいろなケースとの比較がなされる必要があり、今後のさらなる精緻化が求められるところである。

2 3つのアクター群と政策ネットワーク
 これまで見てきたように、原発問題には、エネルギー政策、イデオロギー問題、地域開発政策という3つの性格づけが、それぞれ独立して存在し、それぞれに属するアクターは、異なる行動原理に基づいて動いていた。しかしながら、異なるカテゴリーに属するアクターどうしのコミュニケーションが不可能であるということではなく、原発立地政策というアリーナに属する町レベル・県レベル・国レベルの公私のアクターは、協力関係を保ちつつときには緊張関係を生じさせながらも、つねに政策過程に参加しているのである。つまり、地域振興政策の領域で行動する地方アクターは、政権党あるいは行政のルートを通じて、中央での原発に関する政策決定に関与することができ、逆に原発を着実に稼働させてエネルギー政策を円滑に遂行したいというテクノクラートの意向は、地域振興政策的性格を組み込むことで、地方アクターに反映される、という双方向の関係性が成立しており、こうして全体としての原発政策が推進されているのである。このように、各アクターがイデオロギーや政治的利害を共有してリソースを補完し合う相互依存関係を「政策ネットワーク」という76)。この政策ネットワークという概念は、70年代から80年代にかけて、公的決定過程のみならず「前決定過程」や「執行過程」への関心が高まる中で、政策決定や執行に関係する多数の人々や組織が複雑に関わり合っている様子を表現するものとして登場した。その中心となるのは、国家と社会の関係、すなわち、公的アクターと私的アクターの配置と組織化の状態であり、高度産業国家においては、国家と社会の相互浸透が進み公私のアクターが政策領域ごとに網の目のように結びつくことによって政策ネットワークが形成されていくと考えられる。
 ここで、ある政策に関する一連の過程をアクターの関係性と参加という観点から特徴づけて捉えていくとするならば、原発立地政策はどのように特徴づけられるのだろうか。その政策過程においては、中央省庁から県・町へとつながる「行政」のパイプと、政権党である自民党を軸にして国会・県議会・町議会へとつながる「政治」のパイプの2つが、いわば縦糸として3つの政府をつなぎ、それぞれのアクターは他のアクターと縦横に関係を持ちながら、電力会社や経済界・業界というアクターも巻き込みつつ、ネットワークが形成されているといえよう。さてその一方、社会紛争として原発問題を見た場合には重要なアクターとしてつねに登場する反対勢力は、どのように政策過程に参加しているのであろうか。ケースを見る限り、地方レベル(町レベル・県レベル)においても、国レベルにおいても、反対勢力は原発問題を争点化することには成功しておらず、決定過程に恒常的に参加し他のアクターとの交渉にも加わるということもない。すなわち裏を返せば、反対勢力が参加していない原発政策における政策ネットワークは、「原発推進」という共通の目標をいわば参加資格として排他的状態になっている一方で、電力会社や経済界という私的アクターの活動は公的アクターと緊密な関係を保ちながら行われているということであり、このネットワークを「寡占的共同体」77)として性格づけることが適当であろう。
 以上のように、原発立地政策に関わるアクターを3つに整理し、カテゴリーを越えてつながり合うアクターによる政策ネットワークの形成を見てきた。ただし、ここに登場するアクターはいずれも積極的に政策決定過程に参入している、あるいは参入をめざしているアクターばかりであった。大飯増設の過程においては、地域住民の多数は沈黙を守り、明確な立場表明を避けた、あるいは関心自体を示さなかったのであり、こうした住民をどのように位置づけるかが、今後の課題といえるであろう。また、地域住民のみならず、全国的には原発問題は国民的関心事であり、社会的争点としては認識されているものの、政治的争点化が行われることは少なく、それを不満として声があがるということもほとんどないのが現状である。このような「サイレント・マジョリティ」78)の問題を説明するのには、本稿で提示したフレームワークとそこに位置づけられるアクターを見るだけでは十分ではないように思われる。本稿でこれを詳しく検討することはしないが、これについては梶田孝道による「分離型紛争」モデルが示唆に富んでいる。梶田によれば、原発や新幹線などの大規模開発においては、加害者ないしは受益者の集合体としての「受益圏」は薄く広く拡大する一方で、被害者ないし受苦者の集合体としての「受苦圏」は局地化する。そして社会全体に広がった受益の「集約的代弁者」としてテクノクラートが登場し、地域住民との「国家権力対一部反対派住民」という主体間の紛争となってコンフリクトが表面化するのである79)。ここで重要なのが、社会の大部分の人々にとっては、自分が一部の人に過剰な負担・受苦を押しつけている当事者であるという自覚が起こらないために、問題解決に向けての社会的コンセンサスの形成はきわめて困難であるということである。すなわち原発問題は全国規模の、また社会全体の問題なのであり、とりわけ原発によって生み出される電力の恩恵を享受する都市の問題という視点から、原発問題を捉え直すことが必要なのではないだろうか。
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