脚注(スキャンしたまま未修正)  政治のはなし

1)96年度で34.0%。以上は、通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著『97原子力発電』日本原子力文化振興財団、1997、および通商産業省資源エネルギー庁原子力広報推進室「原子力テレフォン質問箱」への問い合わせによる(97年9月)。
2)石川欽也『ドキュメント原子力政策』電力新報社、1987、48-50頁。なお、科学技術振興対策特別委員会では、労働者農民党が「アメリカの原子力政策に従属する結果」になるおそれがあるとして反対を表明している。また社会党も衆議院本会議において、3法案に賛成しつつも、資本主義体制下の原子力の管理について懐疑的な姿勢を示している(55年12月14日、『第23回国会衆・参議院会議録」)。
3)毎日新聞社編「岩波書店と文藝春秋』毎日新聞社、1996、192-197頁。
4)日本原子力産業会議(立地問題懇談会地域調査専門委員会報告書)『地域社会と原子力発電所」1984、第1章参照。
5)80年代には、国民の過半数が原発に対して何らかの不安を抱くことになる。総理府が行ったエネルギーや原子力発電に関する世論調査によれば、原子力発電所に対して心配(不安)に思うことが「ある」との回答は、80年ll月では55.6%、81年11月では58.8%、84年3月では69.8%と、次第に増加している。内閣総理大臣官房広報室編『世論調査年報』各年度版参照。
6)原子力発電の燃料であるウランは石油に比べて少ない燃料で発電が行えるために輸送や貯蔵が容易であることに加え、使用済燃料を再処理して回収されるウラン・プルトニウムを利用するという核燃料サイクルが完成されればウラン資源の有効理由がさらに進むことになる、ということがこのようにいわれる所以である。また安定供給の観点からは、ウランの供給国には政情の安定した先進国が多いということも原子力の有利な点としてあげられている。通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著前掲『'97原子力発電』13頁。
7)通商産業省資源エネルギー庁編『エネルギー政策の歩みと展望』通商産業調査会、1993、第2章参照。
8)この構図は基本的に、90年代に入っても変化しない。
9)原発の是非をテーマとした公開討論番組では、原発の安全性、放射能のリスク、現代文明の本質などといった切り口から討論が進められたが、議論は最後まで平行線をたどったままであった。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!』1988年7月29日放映分。この放送の内容については、朝まで生テレビ!『原発・是か?非か?』テレビ朝日、1988、を参照。
10)なお、技術面からの原発問題については、筆者の理解を越えるものが多く、また直接的に「社会問題としての原発問題」に関係するものではないために、本稿においては個々に検討を行うことをしない。また、本稿で扱う研究以外にも、優れたルポルタージュが数多く書かれ、原発紛争に直面してその中で生きる人々の様子を生き生きと描き出している。
11)たとえば、YujiroEguchi,"JapaneseEnergyPolicy",InternetionalAffairs,vo1.56,No.2,1980Spring,Tatsujiro
Suzuki,"Japan'sNuclearDile皿ma",TechnologγReview,October1991,ThomasC.Lowinger,"Japan'sNuclearEnergy DevelopmentPolicies:AnOverview",7'he/bterualofEnergyαndDevelOpment,vol.15,No.2,1992,などを参照。
12)Suzuki,"Japan'sNuclearDilemma",p.42.
13)クラズナーは「中心的政策決定者が見つけるゴール」を「国益(nationalinterest)」とし、それを中心的政策決定者の言動から帰納的に定義する手法をとっているが、ここであげたエネルギー政策研究でも、通産省が中心となって政府が追求する戦略的目標から、日本にとっての利益を設定している。StephenD.Krasner,DefendingtheNatiouat1撹gγ8s直,PrincetonUniversityPress,.1978,Chapter皿.
14)LindaCohen,MathewD.McCubbins,andFrancesMcCallRosenbluth,"ThepoiiticsofnuclearpowerinJapanandtheUnitedStates",in∫trPtctureandPo娩yin∫apanandtheUnitedStates,editedbyPeterF.CowheyandMathewD.McCubbins,CambridgeUniversityPress,1995.
15)HarveyFeigenbaum,RichardSamuels,andRKentWeaver,"lnnovation,Coodination,andImplementationinEnergyPolicy",inDoJnstitutionsM雄8γ乳editedbyR.KentWeaverandBertA.Rockman,Brookings,1993.
16)S.HaydenLasbireL,"lmplementingnuctearenergypQlicyinJapan",EnergyPolicy,April1990,pp.267一・282.
17)構成は、内閣総理大臣を会長とし、大蔵・農林・通産・建設・自治大臣、経企庁・環境庁・国土庁長官と学識経験者8人を委員とする。
18)通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著前掲『'97原子力発電』、91-92頁参照。なお、電源立地促進財政制度の展開については、清水修二による研究が詳しい。清水「電源立地促進財政の地域的展開」『福島大学地域研究』第3巻第4号、1992、同「電源立地促進財政制度の成立」「電源開発促進対
策特別会計の展開」『福島大学商学論叢』第59巻第4・6号、1991。
19)村松岐夫『地方自治』東京大学出版会、1988、50-51頁。
20)この節は基本的に次の文献に依拠しており、一般的な事実に関しての出所は特に注記しない。『福井新聞』縮刷版、『朝日新聞」縮刷版およびCD-ROM、福井原子力センター編『福井県の原子力(改訂第9版)』福井県、1997、大飯町役場編『町勢要覧』。なお、福井県関係の資料については、佐藤満教授(立命館大学)、木村亮助教授(福井大学)、柳沢芙美子氏(福井県総務部文書学事課)に、また大飯町については吉田一弘氏(大飯町企画情報課)に大変お世話になった。
21)道路建設は、原発が立地している若狭湾の半島部の住民にとって共通の「悲願」であった。朝日新聞福井支局『原発が来た、そして今』朝日新聞社、1990、序。
22)知事に対しては、国からも原発建設実現の要請が行われたという。このあっせんに関わる知事の動きについては、中川平太夫顕彰会『中川平太夫伝s、1989、346-348頁、に詳しい。
23)この申し入れに対する関係者のコメントは『福井新聞』81年8月26日付を参照。
24)『福井新聞』81年6月10日付3面参照。「原子力発電と地域問題を考える市民連合大集会」と銘打たれたこの集会には、県内各地から3千人が集まった。この集会で演壇に立ったのは次の通り。
高木孝一敦賀市長、熊谷太三郎自民党県連会長、岩動道行自民党電源立地推進対策副本部長、佐々木義武同本部長、中山太郎総理府総務長官、福田赴夫元首相、福井県選出国会議員(牧野隆守=衆・自民、平泉渉=衆・自民、横手文雄=衆・民社)、吉田之久民社党教宣局長、中川一郎科学技術庁長官、桜内義男自民党幹事長、東郷重三県議会議長、矢部智恵男前敦賀市長
25)敦賀商工会議所、自民党県支部連合会などが代表世話人となる「原子力発電と地域問題を考える市民連合」が292,655人分の署名を、また、福井同盟会長が代表世話人をつとめる「エネルギー問題を考える県民会議」が6万人分の署名を、6月30日、原発推進の請願書に添えて県議会に提出している。なお、原発反対県民会議などが敦賀原発永久停止を訴えて前日(29日)に提出した署名簿は、108,692人分であった。『福井新聞』81年6月30日付3面および7月1日付3面参照。
26)当時の県議会における会派と勢力は次の通り(定数40)。県議会自民党(31)、民社党自由クラブ(4)、社会党県議団(3)、公明党(1)、無所属クラブ(1)。83年の改選で若干の変化はあるが、基本的に県会自民党の圧倒的な優位は揺るがない。
27>大飯増設に対しては、町造りの会と小浜市民の会を中心として「反原発3・4号機増設阻止対策会議」が9月に設置された。なお、反対運動の動きについては、立命館大学人文科学研究所社会システムシミュレーション研究会(通称:EBISSプロジェクト)による中島哲演小浜市民の会事務局長へのインタビュー(97年5月)によるところが大きい。本稿執筆に際し、渡滋助教授をはじめプロジェクトのメンバーには物心両面において多大なるサポートを賜った。
28)県議会での議席数は社会党が3、共産党は0であり、各市議会や町議会でも両者合わせて多くても1ケタ前半の議席獲得にとどまっていた。
29)以上は、筆者による吉村清元敦賀市議(社会党、敦賀市民の会代表委員)へのインタビュー(96年11月)および筆者も参加したEBISSプロジェクトによる猿橋巧大飯町議(共産党、町造りの会)へのインタビユー(97年8月)に基づくところが大きい。また、京都大学法学部サークル「がらっばち」による青森県での聞き取り調査とも合致する(92年8月)。
この調査には筆者も参加したが、大下由宮子氏(りんごの花の会)、高梨酉蔵氏(核燃から漁場を守る会)、土田清六ケ所村長、寺石力三郎元六ケ所村長にはとりわけお世話になった。
30)『福井新聞』81年8月30日付嶺南面「日曜レポート」より。
31)『福井薪聞181年10月17日付2面。
32)原発増設を管轄しているのは通産省であり、科学技術庁は高速増殖炉開発を担当している。両者とも原発推進の姿勢を明確にしていることについては共通であるが、この両者の原発に対するスタンスは大きく異なる。詳しくは、吉岡斉「日本の原子力体制の形成と展開」『年報科学・技術・杜会』1号、1992、石川欽也『原子力委員会の闘いa電力新報社、1983、参照。
33)来福した中川長官は中川知事に対して正式に「もんじゅ」建設の協力要請を行う際に、福井臨海工業地帯(福井臨工)へのテクノパーク建設のための調査費計上などを前向きに検討することを示したが、当時福井臨工造成事業は県財政を圧迫し、その処理は中川県政最大の懸案事項であった。木村亮「福井臨海工業地帯造成計画の軌跡J『福井県史』通史編6近現代二第6章第1節2、1996、845-848頁。
34)執行部はこの理由として、@エネルギー情勢が変化し、自民党が電源立地推進本部を設置するなど、代替エネルギーの中心として原発問題に取り組まざるを得なくなった。A大飯町が地域振興を図る財源として電源三法交付金を当てにしており、地元のニーズに応える必要がある、ことなどをあげている。『福井新聞』82年3月18日付3面。
35)この時期の中川県政は共産党を除いたオール与党であったが、社会党は両方の採決ともに反対に回る。
36)宮永県原子力安全対策課長の発言。『福井新聞』82年5月18日付5面。ただし、原発受入れの理由の1つとしていわれている財政的メリットについては、この時期県として高く評価していたわけではない。森川県総務部長は3月県会での質問に答え、県の原発関連支出は一般財源からの持ち出しになっており、原発が財政面でさほどプラスにならないことを認めている。『福井新聞』82年3月18日付3面。なお、原発
と福井県財政についての分析は、木村亮「原子力発電所の新増設と地域振興」『福井県史』通史編6近現代二第6章第1節3、1996、参照。
37)町造りの会がこの署名集めに組織できたのは31人にとどまり、すでに1・2号機建設反対運動の時(400人以上を組織)のような勢いは町造りの会にはなかった。猿橋巧氏へのインタビューによる。
38)町造りの会にとっては、予想していた数の半分にも満たなかった。猿橋巧氏へのインタビューによる。なお、反対運動を繰り広げる人々が各方面から有形無形の圧力をかけられると感じていることは多いという。たとえば、浜辺影一「反原発の声を結集した意見広告」『月刊杜会党』1984年10月号、落合誓子『原発がやってくる町』すずさわ書店、1992、中島哲演『原発銀座・若狭から』光雲社、1988、など。
39)嶺南(上中町)出身の中川知事にとっては、福井坂井、丹南の発展を軌道に乗せた後は、嶺南振興が大きな課題であったと思われる。
40)藤尾正行自民党政調会長は、陳情に訪れた県会自民党執行部に対し、「福井県さんは来る人によって言う事が違いますね」と、福井県としての意見の不一致を指摘したという。「県政展望」『月刊福井』1984年4月号。
41)『福井新聞』84年3月14日付3面。
42)この経緯については次の通りである。小浜市民の会が吹田安兵衛市長に増設の是非などについての姿勢を問うたところ、市長は「小浜市としては口を挟む余地はない」としてこれ拒否した。これを受けて小浜市民の会は、大飯原発の防災範囲内(大飯原発から半径10キロ)に住む小浜市内の有権者に投票用ハガキを配布し、独自に市民投票を実施した。結果は、投票対象有権者数の53.2%にあたる7,316票が回収され、増設「反対」が6,644票(90.8%=投票対象有権者の48.3%)、「賛成」は639票(8.7%)、無効は32票、というものであった(『福井新聞』84年11月6日付3面など。また中島哲演前掲『原発銀座・若狭から』参照)。もしも小浜市としての意思決定を行ったとすればどのような結果が出たかは想像するしかないが、96年8月に新潟県巻町で行われた住民投票の際に問題となった「住民の意思」と議会制民主主義との緊張関係という側面をここに見ることができよう。また、なぜ巻町で成功した住民投票の動きが小浜市では失敗したのか、比較の見地から検討が進められよう。
43)中核工業団地は最終的には上中町に建設することに決定し、88年6月から用地買収開始、92年3月に造成工事を完了して、若狭中核工業団地(通称「若狭テクノバレー」)として分譲が進められている。
44)県水産会館建設や敦賀の高校・女子短大新設の資金の大半は電力会社からの寄付によってまかなわれており、こうした寄付が日常的に行われていることは、しばしば新聞誌上において指摘されている。『福井新聞』84年3月11日付3面、85年3月18日付「話題と焦点」、同3月24日付「日曜レポート」など参照。
45)『福井新聞384年11月20日付3面。
46)記者会見(1月30日)で中川知事は同意理由について「地域の恒久福祉では国の対応は遅れているという認識を持っていたが、資源エネルギー庁の嶺南地域振興計画の青写真が本年度中にできるなど前向きに取り組んでくれていることを確信し、態度を決めるときと考えた」と話した。『福井新聞』85年1月31日付1面。
47)アンケート調査によれば、地方政府にとって重要とされている政策課題は群を抜いて産業振興政策であるという。佐藤満・干場辰夫「富山・石川・福井三県市町村長アンケート調査結果報告」『立命館法学』1990年5号。なお、ピーターソンは地方政府が開発政策をとらなければならないという構造的制約の中にあることを指摘している。PaulEPeterson,C吻Limits,TheUniversityofChicagoPress,1981,pp.69-70.
48)こうしたアクターのカウンターパートとして、エネルギー供給の問題や安全性の問題について統計的・技術的に論じることで原発は不要であるという主張を行う、大都市圏における在野の専門家集団や学者グループを中心とする反原発運動を位置づけることができる。この運動は、情報面や専門的知識の面で地域における運動を支援するとともに、広く原発の問題を世論に訴える役割を果たしている。長谷川公一「反原子力運動における女性の地位」『レヴァイアサン』8号、1991。なおこの中で長谷川は、チェルノブイリ以前の反原子力運動の構図を、立地点における建設反対運動、立地点周辺の地方拠点都市における支援運動、大都市圏における反原子力運動の情報センター、の3つに整理している。
49)梶田孝道『テクノクラシーと社会運動』東京大学出版会、1988、24-25,68頁。
50)大嶽秀夫「テクノクラシー論の再構成」「レヴァイアサン』4号、1989。
51)共産党が原発反対の立場を明らかにし始めるのは、スリーマイル島事故以降原発の安全性が問題となってからであると見られる。中島篤之助・矢島恒夫・柳町秀一・松橋隆司「座談会・自民党政府の原発政策批判」『文化評論』1988年7月号、を参照。
52)このような社会党固有の現象については、以下を参照。的場敏博「戦後前半期の社会党」日本政治学会編『年報政治学91戦後国家の形成と経済発展』岩波書店、1992、大嶽秀夫『戦後日本のイデオロギー対立』三一書房、1996、第3章、高畠通敏編『社会党』岩波書店、1989、石川真澄・広瀬道貞
『自民党」岩波書店、1989、第1章。53)谷聖美「社会党の政策決定過程」中野実編著『日本型政策
決定の変容』東洋経済新報社、1986。54)1955年の統一党大会政策綱領には「新興産業として(中略)
原子力産業の育成をはかる」「原子力の平和利用のための研究設備を整備する」をいう文言が見られる。
55)「明日への期待一社会党政権の政治」(1966年1月21日、日本社会党政策審議会編『日本社会党政策資料集成』1990、所収)
56)「原子炉の設置及び安全確保に対する党の方針」(1961年6月14日、同上)
57)50年代後半から60年代前半にかけて、社会党の機構改革の結果活動家層の発言力が強められたということがその原因の1つとしてあげられよう。中北浩爾「戦後日本における社会民主主義政党の分裂と政策距離の拡大」『国家学会雑誌』106巻11・12号、1993。
58)79年の社公協議においては、原発積極推進の姿勢をとる民社党との関係から、原発問題がもっとも難航したという。吉田正雄「原発反対闘争の今後の課題」『月刊社会党』1980年4月号。
59)この時期、電力業界と関係の深い雑誌で、社会党国会議員がインタビューを受け、党内の反原発の論理を「非科学的」として批判している。後藤茂・松前達郎「硬直した社党「反原発』政策を見直せ」『エネルギーフォーラム』1984年8月号。
60)原対協の中心となった県は、新潟、福井、福島、高知など、原発立地県あいは原発立地予定県であった。日本社会党原発対策全国連絡会議『原対協5周年のあゆみ』社会党原対協事務局、1987。また吉村清氏へのインタビューにもよる。
61)「稼働中の原発については、安全性を追求し、これが確認できない以上、運転を中止させ再検査、再点検を行う」という部分であり、最終的には、この「安全性を追求し」とは稼働中の原発を容認するものではないことを明確にすることで決着がついた。なお、討議の具体的内容については『月刊社会党』1985年臨時増刊を参照。
62)『月刊社会党』1983年4月号では「反動中曽根内閣との対決」という特集が組まれ、その冒頭には飛鳥田委員長が「戦後最悪の反動内閣との闘い」と題した論文を寄せ、「わが党はこの(戦後政治体制の根幹としての憲法体制を破壊する=引用者注)危機を直視し、『護憲の党=社会党』の命運をかけて中曽根内閣と対決していかねばなりません。」(p.11)と強い調子で訴えている。
63)原水禁は「核絶対否定」の枠組みの中に原発も含んでいる。森瀧市郎『核絶対否定への歩み』渓水社、1994、を参照。また原水禁運動と反原発運動の関わりについては、社会民主党国民運動局の増田浩司氏からアドバイスをいただいた。
64)しかしあくまで反対運動に携わる人々を動かしたのは、放射能の不安であった。たとえば、中村亮嗣「ぼくの町に原子力船がきた』岩波新書、1977、明石昇二郎『六ケ所「核燃」村長選』野草社、1990、朝日新聞津支局『海よ!芦浜原発30年』風媒社、1994、など。なお、反原発運動の歴史については、原子力資料情報室の伴英幸事務局長にお世話になった。
65)社会党の地方組織については、友松信也兵庫県議、粟原富失神戸市議、阪本清社会党島根県本部書記長(肩書きはいずれも94年当時)にアドバイスをいただいた。
66)地方の社会党についての研究は少ないが、新潟県の原発反対運動と社会党との関係についての分析として、田中靖政『チェルノブイリ・シンドローム』電力新報社、1989、第2章、がある。
67)なお、本稿では労働組合の動きについて詳しい考察を行ってはいないが、一般論として、原発メーカーのうち、電機労連加盟の組合は社会党を、造船重機労連は民社党を、また電力労連は民社党をそれぞれ支持する方向で活動し、いずれも原発に積極的な意味づけを行って推進(あるいは容認)の根拠としたのに対し、同じ社会党系労組でも総評系組合は原発反対運動をリードした、という指摘をするにとどめておく。
68)大飯町の場合、91年3月現在でではあるが、総従業者数3,350人のうち、建設業が952人(28.4%)、電気・ガス・熱供給・水道業が671人(20.0%)と、県全体での割合(それぞt'LIO.O%、1.1%)を大きく上回っており、原発建設および運転に雇用を依存していることがわかる。福井県『福井県統計年鑑」より。
69)ただし、外来型開発そのものに限界があるとの指摘がある。たとえば、宮本憲一・横田茂・中村剛治郎編『地域経済学』有斐閣、1990、333頁。
70)小林良彰・石上泰州「ケーススタディ自治体財政の現状と要因分析」『地方財務』1990年8月号。
71)交付金や固定資産税は将来的にはゼロになってしまうものであること、電源三法交付金が主に建設事業に対する特定財源であり自治体の実情に合った計画を推進することには必ずしもならないこと、またその建設のための地元負担の際の起債や完成後の維持管理費が将来的に自治体財政を圧迫するお
それがあること、などである。
72)このような指摘は、他のケーススタディによっても報告されている。清水修二前掲「電源立地促進財政の地域的展開」、山川充夫「原子力発電所の立地と地域経済」『地理』32巻5号、1987、芝田英昭「原発は地方に何をもたらしたか(上・下)」『住民と自治』1989年2・3月号、大坂健「原発都市の財政構造と特質」「都市財政構造の変容』東京市政研究会、1991。なお、清水と山川は福島県双葉町など浜通り地域を、芝田は福井県大飯町を、大坂は福井県敦賀市を、それぞれケースとして分析を行っている。
73)西尾勝「過疎と過密の政治行政」日本政治学会編『年報政治学7755年体制の形成と崩壊』岩波書店、1979。
74)大嶽秀夫「開発」日本政治学会編『年報政治学79政治学の基礎概念』岩波書店、1981。
75)原発が「迷惑施設」か否かは、原発が実際に危険かどうかとは別の問題である。なお、原発の立地には、広大な用地、堅固な岩盤、十分な冷却水、という条件が必要であるが、筆者が大飯原発を見学した際に受けた説明では、この3つに加えて「地元の理解」という第4の条件がついていた(96年8月)。これには原発が地元にとっては迷惑施設と見られがちであるという認識が前提としてあると考えてよいであろう。
76)政策ネットワークについては、以下の文献を参考にした。秋月謙吾「非ルーティン型政策と政府間関係(二)」『法学論叢』123巻4号、1988、衛藤幹子『医療の政策過程と受益者』信山社、1993、PeterKatzenstein,"SmallNationsinanOpenInternationalEconomy",inBringingtheStαteBaclein,edited
byPeterB.Evans,DietrichRueschemeyer,andThedaSkocpol,CambridgeUniversityPress,1985、小池治「政策ネットワーク分析試論」行政管理研究センター調査研究部編『政策研究のフロンティア(1)日本の公共政策』行政管理研究センター、1989、VolkerSchneider,"Thestructureofpocynetworks",EPtroPeαnJonmalOfPotiticalResearch,21,1992、新川敏光「政策ネットワーク論の射程」『季刊行政管理研究』No.59、1992、真渕勝「カッッェンシュタインの行政理論」『阪大法学』41巻2・3号、1991、笠京子「戦後日本の交通政策における構造・制度・過程」『香川法学』第12巻2号、1992。
77)新川敏光は、政策ネットワークを、@国家と社会の相互依存性、Aネットワークの閉鎖性、という2つの基準によって、「寡占的共同体(高・高)」「顧客主義的ネットワーク(高・低)」「政策カーテン(低・高)」「イシュー・ネットワーク(低・低)」の4つに区分する。新川前掲「政策ネットワーク論の射程」、15-17頁。またこの類型化の原型となっているのが、シュナイ'ダーのモデルである。Schneider,"Thestructureof policynetworks",pp.112-117。
78)「サイレント・マジョリティ」を、「声なき支持」ととるか「声なき反対」ととるかは、統計の使い方などによって変わってくる。地域レベルでの調査結果は筆者の手元にはないが、全国レベルでの議論としては、たとえば、田中靖政前掲「チェルノブイリ・シンドローム』、終章、長谷川公一『脱原子力社会の選択』新曜社、1996、286-287頁、を参照。
79)梶田孝道前掲『テクノクラシーと社会運動』、第1・2・結章。
80)東大や京大をはじめ、全国の大学の工学部から「原子力」の名が消えつつある。山口俊明「職人も研究者もいない」「RONZA』1997年2月号。
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