「知性の自由」を求める教育、について考える。  学校図書館

 立教大学司書課程主催の連続講座に参加してきた。
 http://www.rikkyo.ac.jp/events/2011/09/9589/

 第1回は、京都精華大学の中尾ハジメ先生のレクチャー。

 これだけ情報が圧倒的に歪められ続ける中、われわれの知性はどうやって自由でいられるか、というのは、なかなかしんどい話であり、「完全に知ってから動くことはできない。知った責任として行動する」という問題提起は、そうなんだけれど、それもまた共有の難しいテーゼだな、と思った。
 そもそも「知性」は「自由」を保障するのか、「自由」を「教育」することは可能か、しかもそこに「学校」という権力装置を挟むことは許されるのか、そういったメタレベルの問題について、きっと主催者は無自覚にこのようなタイトルをつけたのだろうし、それがこの連続講座の主題ではないのだが、すでにこの段階で方向性がある程度示されているのだとすれば、はたしてそれは「自由」なのか?

 ところで、主催者宛に送ったリアクション・ペーパーを公表してほしい、という要請があったので、以下にほぼそのまま掲載。リンク集をつくるそうな。
 なお、帰りの新幹線の中でアルコールが入った状態で書き散らしたものですと、前もって言い訳しておきます。
 http://d.hatena.ne.jp/to-yurikon/20110926

 ちなみにこのブログを見たゆりこせんせいから「ブログ、手加減してない?」と突っ込まれてしまった。
 もちろん、してますよ。

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 冒頭の「知性」と「自由」と「教育」との関係についてのお話、実はとてもアンビバレントなものである可能性にもかかわらず、それを無自覚に語るという行為そのものについて、大いに考えさせるものでした。
 そもそも、「知性」は「自由」であるべきなのか、「知性」とは「自由」なものなのか、それを「教育」という権力性をともなう枠組みの中に閉じ込めることは可能なのか、そういったことについて無自覚であったことについて、反省させられましたし、すでにその段階で、もしかすると私たちは自由でないところからスタートしてしまったのかもしれません。


 「考える」「知る」「信じる」の対概念としての「考えたくない」「知りたくない」「〜しようとしない」という設定は、とても新鮮でした。そして、「東電の隠蔽体質はけしからん」「安全神話」「SPEEDIを出さないのはけしからん」といった言説が、後者でしないという指摘は、目からうろこでした。


 どこか、こんな事故を起こしたら「原発要らない」となるのが当然、という前提があるように思いましたし、私も(チェルノブイリでも、東海村事故でも、中越地震でもだめだったが、今度こそ)そういう世論が圧倒的になるものだと思っていました。しかし、どうもそうでもないらしいです。
 そこで思い出したのが、広島の原爆資料館を見たある国の政治家の話です。あの原爆の惨禍を目にして、「すばらしい、このような武器があれば、我が国は安泰だ」とコメントしたそうです。両者は対話不可能なのでしょうか、あるいは対話の道があるのでしょうか。


 民主党政権の公約であった「記者クラブの解体」があいまいになり、結局大手メディアの寡占状態と大本営発表報道が続いています。私は、小沢一郎氏の政治献金問題(あれは帳簿上のミスですので、修正申告で済む話)の報道、一連の震災報道・原発報道、そして極めつけの先日の鉢呂経産省「失言」報道で、日本の大手メディアへの態度が、失望から絶望へと変わりました。それならそれで、見ないで済ませることができるかどうか、やってみる価値はあると思いますが、問題は、学校の授業で「新聞は読むな」とは言いづらく、学校図書館で「週刊誌やインターネット動画サイトを見なさい」ともやはり言いづらいことです。
 関連しますが、学校の授業に新聞を導入する動きが、新聞社の販促とセットになってあります(いわゆるNIE運動というやつです)。これは、新聞をつくってみよう、だとか、新聞の見出しを比べてみよう、とか、そういうことが多いのですが、新聞そのものを疑ってかかろう、ということには絶対になりません。その段階で、授業が絡み取られているのだと思います。


 私が学生時代、貧困や差別や不正義やいろんな問題を知り、「知ったからには行動しなければ」と悩んだ時期がありました。「悩むくらいなら知らなければよかった」と思いましたし、同じことを人に伝え「知ったからには行動せよ」と迫ったこともありました。しかし、そのような義務感からは、あまり楽しい行動は出てこなかったし、人もついてこなかった記憶があります。
 おそらく90年代以降、冷戦が終わり政界再編が進み、阪神淡路大震災の経験を経て、NPOやボランティアが伸長してきた背景には、「行動したいから行動する」というポジティブな社会運動への態度が登場したからだと思うのです。「知った責任」はたしかにあるのでしょうが、「行動しないことへの道義的責任」は問えるのでしょうか・・・。

・・・と、直後には思ったのですが、少し時間を置くと、「責任」と考えるとしんどくなるのであって、論語に曰く、「義を見てせざるは勇なきなり」だと思えば、少しは積極的に考えられるのかな、と思ったりしています。


 私事で恐縮ですが、身内に山下俊一長崎大教授と共同研究している者がいて、本人もチェルノブイリの小児性甲状腺がんの研究をしています。話によれば、小児性甲状腺がん以外の病気には、2つの対照群に統計的に有意な水準で差が出ないのだそうです。
 また、反原発団体がベラルーシのゴメリから医師を招待し、現状報告をする会合に出たことがあります。その先生は「二度とチェルノブイリの悲劇を繰り返してはならない。だから、もっと安全な原発がほしい」と発言し、主催者をあわてさせていました。
 これもまた、IAEAと「原子力帝国」の陰謀なのでしょうか・・・?
(なお、私は、原発は不要だと思っていますし、止めるべきだと思っています。広河隆一氏の写真集は見ましたし、放射線の影響もあったと思います。)


 次回も楽しみです。参加できれば・・・ですが。
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