賞味期限切れ寸前のメモ:『3.11後の放射能 「安全」 報道を読み解く』  世の中のはなし

 もう1か月以上前のことになるが、連続講座第2回の影浦先生のレクチャーに関して、ブログにアップしようとしていたメモがあるのだが、まだまとめきれていない。
 アナロジーについて感じたことは速報的に書いてはみたが(http://sun.ap.teacup.com/applet/kodamac/20111029/archive)、それ以外についても、そろそろ賞味期限も過ぎてしまうので、未完成ながら投稿しておきたい。

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 小学校の校長先生が、給食に毎日ウィスキーを混ぜていた。
 専門家は「私は5歳のころから酒を飲んでいるが、なんともない」「少量の酒はむしろ体にいい」というコメントを出して、校長を擁護している。
 そんな「科学的論争」をしているのではない、校長のその行為が不当・不法であることが問題なのだ。
 低線量被ばくについての専門家も同じこと。

 不安に感じることを問題視する専門家は、問題をすり替えている。これまでの基準を超えた放射線量に対して不安に感じるのは当然で、立証責任は東電や政府の側にある。子どもの健康を第一に考える親に対して「ヒステリー」を言うのであれば、「正常」な親とはいったいどんな親なのか?

 専門家は「知っている人」。知らないことは「想定外」として考えない。自分たちの世界の中で、現実から乖離した仮定によって、議論を進める。
 科学者は「知らない人」。誰も知らないことに挑み続ける。予想した範囲を逸脱して、事実を目の前にして考えることができるか?

 以上がメモ。
 でも、考えられるようになったらしんどいだろうな。誰でもが引き受けられるわけでもなく、自由から逃走したくなるだろうな。

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 その1週間ほど前(10月21日)、鷲田清一先生の講演を拝聴したばかりだったので、「専門家」の抱えた問題について整理できるかな、と思ってはいた。以下はそのメモである。

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鷲田清一先生のお話「わからないことの大切さ」(本校創立記念講演)

・知恵と知識の違いについて
・「生活の中で生きる知識」「どうよく暮らしていくか」=「知恵」
・原発とはトランス・サイエンスの領域。個別の先端科学だけでは担えない事業。この複合的な事業そのものの専門家はいない。そして誰も責任をとらない体制(「それは私の専門ではないから・・・」)が出来上がってしまった。
・知らない間に、この国は、知識はあるけれど知恵はない国になってしまった。
・先端科学の与える影響力の大きさを考えると、今ほど知恵が必要とされる時代はない。
・知恵はどういうときに働くのか?
・問題と解答・解決は必ずしも1対1で対応しない。2つ以上あったり、論理を貫徹できない解があったり、答えがない問いがあったりする。
・そんなときに必要とされるのが「わからないものに、わからないまま正確に判断する力」「わからないままに、これは大事!、と直感的につかんでいく力」。これが政治的感覚。これを研ぎ澄ましておかなければならない。
・ほんとうの学びとは、わからないという息苦しさに耐え、ひたすらに考え続けられる知性のタフさを身につけること。
・本当の知性とは? ものごとの価値の遠近法をしっかり持っている人。
 1)絶対になくしてはいけないもの
 2)あったらいいもの
 3)なくてもいいもの
 4)絶対にあってはならないもの
この4つのカテゴリーに、わからないものを即座に区分けできるか?
・それは年とともに変わっていく。いろんな経験を積み、人と交わり、これを正確なものにしていく。絶えず組み替えていく。それが「学び続ける」ということ。

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 なお、専門性あるいは学問領域の抱えた問題については、昔、メモをブログに載せたことがある。
http://sun.ap.teacup.com/kodamac/511.html

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 ところで、「専門」と「教養」の関係について、内田樹氏が、孔子の「六芸」や旧制高校を例に挙げて説明していたのが眼からウロコだったので、長くなるが引用する。

 専門教育というのは、「内輪のパーティ」のことです。
 そこは「専門用語で話が通じる」場所です。あるいは「通じることになっている」場所です。そこでは、「それはどういう意味ですか?」という術語の定義にかかわる質問をしてはいけません。あるいは「この学問領域は何のために存在するのですか?」とか「あの人はなんで偉そうにしているんですか?」という質問 は許されません。全員が「その場のルール」を熟知している(ことになっている)というのが専門教育の場です。
 (中略)
 ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。(中略)・・・他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。他の専門家とコラボレートできるためには、自分がどのような領域の専門家であって、それが他の領域とのコラボレーションを通じて、どのような有用性を発揮するのかを非専門家に理解させられなければいけません。
 (内田樹『街場の教育論』90-92頁)

 
 そのために必要となるのが「教養教育」だ、と話は続いていく。だから専門教育も教養教育も両方ないと困るというのだ。

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 最後に。
 このレクチャーの中で、「なぜメディアリテラシーについて普段やっていない自分が、この問題について発言しなければならないのか?(なぜ、メディアリテラシーの専門家が、この問題に対して沈黙を守っているのか?)」という問題提起があった。
 まさに「専門家」だからこそ、「想定外」のことは考えられず発言もできなかったのかも。
 もっとも、「メディアリテラシー教育が、学習指導要領でも求められている」とかいう、お上の権威付けとは何かを疑いもしないメディアリテラシー教育論があるのも、事実。


 なお、主催者によるブログは、こんな感じ。
http://d.hatena.ne.jp/to-yurikon/20111120/1321792034(中村先生)
http://blog.goo.ne.jp/masa-sem/d/20111120(足立先生)
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