日本語の響き  読書メモ(09.6〜)

 ぼくは、劇団四季のミュージカルが、苦手である。何度か観に行って、うまいな、とは思うが、それ以上ではない。
 ひとつには、日本人(正確には「ヤマト民族」)だけでいろんな役をこなすことに限界があって、いくらカツラをかぶって白人になろうとしても、顔に色を塗って黒人になろうとしても、それはダウンタウンやウッチャンナンチャンのテレビのコメディと大差ないように思える(劇団四季に限ったことではなく、これは舞台芸術全般に言えることである)。その点、ブロードウェイやウェストエンドでは、難なくクリアできる問題だ。また、NHKの「坂の上の雲」が(国籍や民族を無視したいわゆる外タレではなく)きちんとアメリカ人やロシア人やイギリス人によって演じられていることで、見応えが増しているのも、同じことだろう。
 しかし、どうもそれだけではないことに、気づいた。
 日本語の歌詞が、どうにもしっくりこないからだ。

In sleep he sang to me,
in dreams he came . . .
that voice which calls to me
and speaks my name . . .
And do I dream again?
For now I find
the Phantom of the Opera is there
inside my mind . . .
 ↓
夢の中であなたは 
この心にささやく
今姿も現れ
ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ
そう あなたね
http://enbi.moo.jp/phantom/text.html#prologue


・・・やはりどこかムリがあるでしょう。

 そんなことを思っていた折、NHK大河ドラマ『龍馬伝』でも登場した、土佐の民権運動家・坂崎紫瀾による新聞連載『汗血千里の駒』(岩波文庫)を読んだときのこと。
 どうもこの文体が目から頭に入っていかず、もう止めようかと思って、文末の彼の略歴を読むと、彼は一時期、講談師をやっていたというではないか。
 そこで、本文を、声に出して読んでみた。

然れば坂本龍馬は一たびかの千葉家の息女光子を見染めてより兎角にその面影の忘られず大息つきて独語しける様は 我れ熟ら江戸の風俗を観るに三百年の太平に欺かれて坂東武者の勇気と参河士の節義を併せて地を払うの有様となり果てゆき・・・
(第九回)

 なるほどなぁ。透谷、逍遥、四迷たちが日本語を整えていく前の日本語、そして漱石や鴎外が登場して近代小説を完成させていく前の明治の戯作というのは、こういうものだったわけだ。

 劇団四季と龍馬伝とがひとつにつながったきっかけが、井上ひさし『日本語教室』(新潮新書)であった。
 東北出身の彼によれば、もともと日本語には、東北弁のようにアクセントがなかった。それが大陸からやってきた人たちの言葉の影響でアクセントがついたが、それでも英語のように強弱まではつかなかったという。そして、斎藤茂吉の短歌を例に、「あいうえお」の5つの母音の奏でる音韻の奥行きの深さについて解説する。脚本家であった彼は、できるだけ漢語ではなくやまとことばを用い(観客が咀嚼するための反応時間がコンマ何秒違うらしい)、銀行といえば必ず「三菱銀行」なのだそうだ(iの母音は遠くまで届くらしい)。
 言葉は精神そのものなのだと、彼は語る。
 そして、彼は日本語とこの国が大好きであることを宣言する。だからこう続ける。

 日本の悪いところを指摘しながら、それをなんとか乗り越えようとしている人たちがたくさんいます。私もその端っこにいたいと思っていますが、そういう人たちは売国奴と言われています。でも、その人たちこそ、実は真の愛国者ではないのでしょうか。完璧な国などありません。早く間違いに気がついて、自分の力で乗り越えていくことにしか未来はない、ということを、今回の講座の脱線と結びにいたします。(p.118)

 震災以降、東北とは何か、ということが議論された。東北とは何か、そしてそこから見える日本とは何か。
 日本について考える材料は、どこにでも転がっている。それを自覚するかしないか、だけの話だ。
 だから、ムリに学校で教える必要はない。ちょっとだけ、きっかけがあれば、そこから思考はどんどん広がっていくはずだ。

<追記>
 これを書いた後、影浦峡『子どもと話す 言葉ってなに?』(現代企画室)を読んだ。
 まったく違うアプローチから、実は同じようなことを言っているように思えて、もしも井上ひさし氏がご存命で、このふたりが対談をしたら、どんな日本語論、日本人論、日本論が展開されただろうと、想像をたくましくしてみる。
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