近代、匿名性、「わかりやすいニュース解説」、職人としての教師  教育のはなし

 今日は、中学1年生の英語の試験監督をして、次の時間には、高校3年生の現代文の試験監督が当たった。なんだか、北海道から沖縄まで一気に移動した感じである(・・・と高3生に話したら、「どっちが北海道なんですか」と突っ込まれた。たしかに中1の方が亜熱帯っぽいけど、高3の手のかからなさ加減の方が南国の楽園という気もする)。
 現代文の問題は、完全にセンター形式の演習問題で、課題文が3つ。玉木明の評論文(「ニュース報道の言語論」)、司馬遼太郎のエッセイ(「この国のかたち」)、原田宗典の小説(貧乏学生が資産家の娘に捨てられるという「十九、二十」という話)であった。
 評論文とエッセイは、どちらも「近代における個と社会」というテーマであり、こういう問題が出しやすいし考えやすいものなのか、それにしても小説は、ちょっと身につまされる話やなぁ・・・、などとと思いながら、読み進める。

 玉木の評論によれば、近代ジャーナリズムは、出来事自身が語るかのような「無署名性言語」を用いることによって、あたかも、代替可能な構成員による分業によって生産される工業製品のように、匿名性を身にまとった記者によって伝えられたニュースが生産される。そしてそれにより、「中立公平・客観報道」という理念を盛り込むことも可能となった。
 続く司馬遼太郎の話は、あるオーストラリアの小島に暮らす日本人が、今の日本を見て「働いている者(=体を使っている職業)とそうでない者(サラリーマンや医者や教師は、みんなこちらに入る)との服装が同じだった」と驚いたというエピソードから始まる。日本では、お坊さんも大工さんも溶接工も自衛隊員も、スーツを身にまとって、不特定大衆の中に身を隠す。そして日本には「大工さん」も「八百屋さん」もいなくなった。これを司馬氏は「職人の雄々しさ」と表現する。

 閑話休題。
 池上彰氏は「わかりやすいニュース解説者」の代表格だと思う。だからあえて、彼を引き合いに出す。
 彼は原発事故の後、各局のゴールデンタイムに登場し、ひたすら「原発は安全です」「放射能は安心です」と連呼してきた。
 なるほど、「○○と報じられています」ということは、明らかな事実である。だから、「原発は安全といわれています」「放射能は安心だといわれています」というそれ自体は、間違いではない。
 きっと、池上さんは「メルトダウンとはこういうことです」という解説もしたことだろうし、もしも健康被害が出れば「放射能による健康被害はこういうことです」という解説をするのだろう。ニュースをわかりやすく解説することと、メディアを読み解く力をつけることとは、まったく違うのである。
 この池上氏の語りは、玉木氏の評論の言葉を借りれば、「中立公平・客観報道」という衣を身にまとった、「無署名性言語」そのものではないか。

 ちなみに、玉木氏の評論で、「記者」を「教師」に置き換え、「ニュース」を「学校教育」に置き換えることは、十分に可能である。

 とすると、東京都が進める、あるいは大阪府が進めようとしている教育改革について、違和感を禁じ得ないのは、「私」という一人称を捨て、代替可能な匿名の教師として教科書の内容を教えるという「無署名性授業」をよしとする発想が、その根底にあるからだといえるだろう。
 そしてそれは、スーツを身にまとった「教育関係者」になることに対する、「職人」としての教師からのささやかな抵抗である。
 ただし、学校改革という近代的合理的組織への組み換えにとっては、これがもっとも排除すべき思想であり行動でもある。だからこそ、この衝突は熾烈なものとなるのだ。

 奇しくも今週のAERAの特集は、都教委を相手にひとりで裁判をしている、都立三鷹高校元校長の土肥先生である。
 さしずめ、明治近代に刀で立ち向かう、ラストサムライみたいなものか。あるいは学校組織は近代を飛び越えて、ポストモダンに突入するということは、あり得るか?
2



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL





AutoPage最新お知らせ