シティズンシップ教育の可能性?  教育のはなし

 正直に言うと、「シティズンシップ教育」というものに、いい印象を持っていなかった。というのも、身近に、「シティズンシップ教育」に目覚めて、自分の授業実践を本にした人が身近にいて、その人から研究会などで話を聞いていたのだが、どう聞いても、従来の「開発教育」だとか「総合学習」との違いがわからなかった。そして実際に、彼の授業実践報告は、これまでの授業の焼き直しみたいなもので、この授業を通して「市民性・公共性」が養われたとも、反対にこれまでの授業ではそれらが養われてこなかったとも、思えなかったのである。
 だから、「シティズンシップ教育論」は、かつて雨後のタケノコのようににょきにょき現れた「フィンランド教育論」みたいなものだと思っていた。
 そんなこんなで、今日、日本の「シティズンシップ教育」の第一人者、小玉重夫先生の講義を聞く機会を得たので、講義の後に、「開発教育とどう違うのですか?」と、日ごろの疑問をぶつけてみた。「シティズンシップ教育は、学校のガバナンスや関係性自体を問い直すものなんですよ」ということだった。
 う〜〜〜〜〜ん・・・。

 さて、講義冒頭の「情報は政治的文脈の中でつくられるものであるから、情報リテラシーを政治的リテラシーととらえる」という問題提起は、きわめて重要だと考える。
 政治過程論で登場する「アジェンダセッティング」についての理論では、政治的アクターの交渉過程のみに注目するのではなく、その前段階にも権力過程があることを指摘する。何を争点とするか、何を問題とするか、あるいは問題として取り上げないか、さらには問題とすら認識させないか、ということであり、それは権力論としては「2次元的権力」(バカラック&バラッツの非決定権力)、「3次元的権力」(ルークス)という形で指摘されている。
 その意味で、クリックの「政治的リテラシーの構造」のいちばん頂点に「争点を知る」があるのは、きわめて正しい指摘だと思う。
 そして、政治的リテラシーのない「社会的道徳的責任」や「共同体への参加」は、戦前の国家総動員体制のように危険なものとなりかねないという指摘も、また重要なものだった。
 しかし、「専門家の最先端の知識を、教師が系統的に習得させれば、自立的な市民となる」という系統主義的カリキュラムではなく、アカデミズムと教師・専門職と市民との間の「専門性の批評空間」の中で市民性が涵養されていくのであり(裁判員制度がこれを体現したもの)、学校はバーチャルな公共空間を立ち上げる実験室である、というようになると、ちょっと話が見えなくなってしまった。「系統主義と経験主義の振り子」は戦後ずっと揺れ続けているのであり、シティズンシップ教育も、戦後何度目かの波のひとつなのだとすれば、じきに系統主義の揺り戻しがやってくる。そして実際に、それは起きている。
 そもそも、こういう問題意識に基づいてシティズンシップ教育を実践することの政治性について、シティズンシップを身に付けた市民ならば、どのように評価することが可能なのだろう?

 ちなみに、自分の経験から言えば、政治教育以前に日本の社会科教育で決定的に欠如しているのは、「近現代史教育」である。参加して未来をつくっていこうにも、GPSが壊れていて現在地がわからなければ、そして地図がなくてどこから来たのかがわからなければ、どっちに向かえばいいのかなんて、わかるはずがないじゃないか。
 そして、金科玉条のように条文を暗記する「憲法学習」もまた、主権者としてこの国をつくっていくという発想と真っ向から衝突するものである(「日本国憲法では〜〜と定められている」という表現が、その象徴である)。
 そのあたり、何とかしようとあがき続けて16年。成果のほどは怪しい。


おまけ:本郷三丁目交差点の「三原堂」にて発見。
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