シティズンシップ教育の日本での展開可能性についての所感  読書メモ(09.6〜)

 図書館に用事で行ったら、放課後当番に当たっているはずの先生が来なくて、司書さんが帰るに帰れなさそうにしていたので、代わりに入りますよ、と、今月2回目のスクランブル居残りをすることになった。
 ちょうどジュンク堂から届いたばかりの本が手元にあるので、読みながら当番することにした。
小玉重夫(2003)『シティズンシップの教育思想』白澤社と、バーナード・クリック(2000=2011)『シティズンシップ教育論』法政大学出版局、の2冊である。
 熟読したわけではないので、これは直感でしかないのだが、まず「シティズンシップの教育論を扱うべきは、政治学であって、教育学ではない」と思う。たとえば図書館学が図書館不用論を提唱できないように、原子力工学が原発反対派を閉じ込めてきたように、この教育論は、実は現行教育システムの解体なのだから、それは教育学の外部からでなければ核心にアプローチできないのではないだろうか。
 そして、シティズンシップ教育論では、「教師が、教師である以前に、一市民である」ということが大前提となる。「教師聖職論」あるいは「先生なのだから」的な発想が根底にあると、無制限無定量な教師の仕事の世界に入り込んでいく。もっといえば、日本社会が、就社主義を乗り越えて、ワーク・ライフ・バランスを実現できてはじめて、ヨーロッパのような個人主義を前提とする市民社会が成立する。ただし、もしもその背景にキリスト教が必要なのだとしたら、このシティズンシップ教育論はきわめて西洋的なものとして、留保が必要となる。
 そういう意味で、日本の学校や社会を前提としてシティズンシップ教育の方法論だけを取り上げても、それは似て非なるものにしかならないように思う。
 これは劇薬であって、生半可に手を出すと、おかしなことになる気がする。
 ちょっと未整理のままだが、メモとして記録しておく。
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