メモ:高校教育に関する「希少性」問題  私立中学・高等学校について

 経済学の教科書のいちばん最初には、たいていこんな説明がある。
 経済活動とは、人々の無限の欲求に対して、それを満たすための資源が有限であるという「希少性」の問題に始まる。それゆえに、何をどれだけ生産し、誰に分配するかを決定するという問題が生じる。これを計画的に行うか、市場に委ねるか、という、大きく2つの選択肢がある。
 「教育の経済学」というと、人的資本論に始まり、期待収益率だとか、費用便益だとか、そんなことが頭に思い浮かぶ。しかし、「誰がその高校に進学するか」「誰がどの大学に進学するか」という問題、そしてその裏返しともいえる「どの学校がどのような生徒を集めるか」という問題は、十分に経済問題である。そしてその費用をどのように負担するかは、厚生経済の問題とはならないか。
 東京大学に入りたい人は、10000人いる。潜在的な需要を考えれば、その数はさらに増えるだろう。同じく京都大学に入りたい人も、10000人いて、潜在的需要はさらに多い。この希少な「東大合格者」「京大合格者」がどのように分配されるか、誰に分配されるか、それが「高校の大学合格実績」という数字を介して表現される。すなわち「誰に」という問題は、個人の属性ではなく、学校の属性として、広く議論される。
 その一方で、多くの大学は定員割れを起こしているのだから、ここに「大学進学希望者」と「大学入学定員」との間で、ミスマッチが起きているということを意味している。このミスマッチをどのように調整するか、計画的に行うか、市場に委ねるか、と考えたとき、定員割り当てという計画的調整と、受験生の獲得という市場的調整とが共存しているといえるのではないか。
 同様に、高校においてもそれは同じことで、一部の人気校には受験生が殺到し、その一方で定員確保ができない高校もある。少子化が進む中、高校教育をどう供給し分配するかは、定員政策という計画的調整と、各校の受験生獲得競争という市場的調整とが共存しているように思われる。
 さらに、その費用をどのように負担するかというとき、「家計の負担」と「税による負担」とをどう組み合わせるかということになろう。
 こういうことをつらつら考えているのは、昨日あちこちで京大合格者数の速報値が報じられたからである。「公立高校の躍進」「堀川の奇跡」の大見出しが目に飛び込んでくる。
 3000人という京大合格者が、入試の成績によって選抜される。その結果は、各個人の属性によって公表されるのではなく、出身校の合格実績として反映される。東大や京大の合格者の家計は、高い階層の出身者が占めているということは、以前から指摘されているが、そうであるならば、私立高校に通うことが可能な資力を備えた家計の子弟が公立高校に進むことで、本来公立高校に通うべき生徒をクラウディングアウトしていることにはならないか。
 ただし、1960年代の東京都のように、公立高校に行けない生徒が、(成績が悪いという自己責任の問題として)高い学費負担をして私立に行くか、進学をあきらめるかという選択を迫られることには直結しないだろう。授業料に限っては、私立高校への授業料無償化政策の拡充によってクリアされる。ただしそれが「公立高校に合格する努力をしなかったり、勝手に私立を選んだ生徒に、なぜ授業料を支援するのか」「私立を公立の受け皿にするのか」「公立を閉鎖する口実にするのか」という批判につながっているのも、また現実である。
 公立高校と私立高校の学費の問題を、「公立高校生1人あたり100万円、私立高校生1人あたり35万円(大阪や京都では50万円ほどになるらしい)の戻し税」と考えればどうなるか。エコカー減税を実施して、減税対象車を買うか、それとも対象外の車を買うか、という選択を消費者に迫ることと、公立に行くか私立に行くかという選択を家庭に迫ることとは、どう違うのだろうか。
 あるいは、学費負担問題についていえば、「ぜいたくな市立病院をつくって、成績順に診察する」と言って、許されるかどうか。「ぜいたくな市営住宅をつくって、成績順に入居できる」と言って、許されるかどうか。しかし「ぜいたくな市立高校をつくって、成績順に入学できる」というときには、なぜ許されるのかどうか。公立病院の役割や、公営住宅の役割と、公立高校の社会的な役割とは、同じのか、違うのか。違うとすれば、それはなぜか。
 この学費負担問題、とりわけ、県外に出ていく生徒のために公金支出をすることの是非は、かつては「出世して故郷に錦を飾ってくれるための先行投資」として正当化されていた。しかし、今ではその議論が成り立つかどうか。限られた県や市の教育財政をどこに振り分けるかは、政治の問題であるが、おそらくは名門校復活のための教員加配の方が、しんどい学校に教員を加配することよりも、見栄えがするからだろうか。政財界の有力者に卒業生が多いからだろうか。
 ある試算によれば、公立中高一貫校の生徒1人あたりにかかる費用は、300万円近くになるのだという。普通の高校生の3倍近い。その費用を、公立中高一貫校あるいは進学重点校に投じるか、しんどい地域のしんどい学校に充てるか、普通の公立校を少しずつ底上げするか、それはきわめて政治的判断の範疇に属する問題である。
 さて、公立高校の中に進学重点校を設けるというのは、全国的にみられる傾向なので、それはさておき、それが「高校への需要が高校への供給を下回る」局面において行われていることが気にかかる。
 需要を増やすことは、留学生からを受け入れない限りは無理なので、供給側の調整を行うしかない。今はいちおう、公私間の定員調整の協議会があるが、公私の役割分担という面での実りある議論はなされていないと聞く。また、定員調整については談合との批判が根強い。その上で大阪府が行おうとしているのは、この市場型調整を強化しようということなのだろう。
 一部の私立高校が、県外からの生徒を集めようとするのも、そのための手段として、スポーツをはじめとしたクラブ活動がある。日本のスポーツ界は、地域クラブにではなく学校スポーツに依存してきており、学校の教員がスポーツの世界の人材の受け皿ともなっていることもあり、それが可能となる。
 中学校を開設し、早いうちから生徒を確保しようとするのも、中学校という新規マーケットの開拓のためである。高校と設備は共用でき、現職教員も中高の両方の免許を持っていることが多いので、イニシャルコストは低い。遊休施設や人員の活用という点でも有効である。ただしその結果、大都市圏の一部では小学校の受験が問題となっているらしいし、中高6年一貫校が増えてきたことで、そうでないところとの2つのトラックの差が徐々に顕著に見え始めたようにも思われる。
 あるいは公立高校にはできない教育を模索する。今、一部の私立高校で、アイビーリーグやオックスブリッジへの進学を謳い始めたところがある。かつて、公立高校ができなかった、海外への修学旅行や短期語学研修留学では、もはや公立高校との差異化ができないからである。一部の富裕層の子弟を囲い込むというのは、これも公立高校との差異化のひとつである。
 もっとも、日本の高校教員養成システム、あるいは日本の高校教員文化が、慶応や同志社などの一部の私学を除いて、きわめて帝国大学からのスピンアウト的な構造を備えており、高校教員には「家はそれほど裕福ではなく、勉強が好きで、大学には残らなかったものの・・・」という人が多かったし、今でもその名残は留めている。そのため、一部の富裕層を相手にしたエリート教育といってみても、教員の中にそのような文化がないので、きわめて難しいのである。
 結局、公立高校の役割は何なのか、というところに尽きる。かつてのような、高校が足りなかった時代、あるいは東大に進学して故郷に錦を飾るような時代では、もはやなくなった。しかし、新たな公立高校像が描かれないまま、そして公立高校像がないことによって私立高校像もぼやけたまま、粛々と「調整」は進んでいく。それが「計画的調整」なのか「市場型調整」なのか、はっきりしない。そんなわけだから、高校の中に身を置く者として、漠然とした不安にいつまでも追い立てられなければならないのである。
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