私立学校論を専攻しています?  

 「めいちゃんの執事」というマンガがあって、このたびドラマ化されたらしい。番宣でしか見ていないけれど、どうやらフツーの女の子のめいちゃんが突然授業料月1億円という私立校に通うことになるお話らしい。年に12億円というと、それだけでうちの学校を運営してお釣りが来るじゃないか。
 そういえば、「私立高校の学費は高い」というけれど、ほとんどの私立高校は年間の学費が70万円くらいである。確かに安くはないが、これを高いと考えるかどうかは別問題だ。ちなみに国立大学の「安い」授業料が年間60万円なのだから、実は大して変わらない。たとえばイギリスの私立高校の年間の学費が200万円だったり、愛知の某日本版イートン校の学費が年300万円だったりする方が普通で、むしろ、公立高校の学費が安すぎるから、「私立高校は高い」ということになるのだろう。これって、「日本の医療費は高い」という誤解(ほんとうはびっくりするほど安くて高品質なのに)と同じくらい、奇妙な話だと思うし、そんな誤解を前提にして政策立案したがために日本の医療が崩壊し始めたように、日本の高校教育も崩壊しかねない。
 なお、公立高校の学費が安いというカラクリは至って簡単で、高校生1人当たりの教育費は公立も私立も約110万円と変わらないのだけれど、公立高校には1人当たり100万円の税金が支出され、私立高校には30万円の税金が補助金として交付されているから、その残りが授業料の差になる、という、ただそれだけの話である。

 ところで、「専門」と「教養」の関係について、内田樹氏が、孔子の「六芸」や旧制高校を例に挙げて説明していたのが眼からウロコだったので、長くなるが引用する。

 専門教育というのは、「内輪のパーティ」のことです。
 そこは「専門用語で話が通じる」場所です。あるいは「通じることになっている」場所です。そこでは、「それはどういう意味ですか?」という術語の定義にかかわる質問をしてはいけません。あるいは「この学問領域は何のために存在するのですか?」とか「あの人はなんで偉そうにしているんですか?」という質問は許されません。全員が「その場のルール」を熟知している(ことになっている)というのが専門教育の場です。
 (中略)
 ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。(中略)・・・他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。他の専門家とコラボレートできるためには、自分がどのような領域の専門家であって、それが他の領域とのコラボレーションを通じて、どのような有用性を発揮するのかを非専門家に理解させられなければいけません。
 (内田樹『街場の教育論』90-92頁)

 
 そのために必要となるのが「教養教育」だ、と話は続いていく。だから専門教育も教養教育も両方ないと困るというのだ。
 
 なるほど、ぼくに足りないのは、まさに「専門」そのものなのか。
 いや、「教育学って結局何やってるんだろう?」なんてときどき思うけれど、「私立高校の置かれた状況をなんとか説明しなければ!」と思っているぼくは、「教育学」ではなくて「私立高校論」を専門として研究している、と言わねばならぬことになるのだろうか?
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