1993.6.18→2009.8.30  

 あの日、野党が提出した宮澤内閣不信任決議案が、自民党からの造反によって可決された。
 そして、政治改革を求める若手グループが離党し、政界浄化を掲げて新党さきがけを結成した。その中に鳩山由紀夫がいた。また、派閥抗争に敗れて非主流派となっていた羽田派も離党し、自民党への対抗勢力の集結をめざして新生党を結成した。その仕掛人が小沢一郎であった。
 ぼくが選挙権を得て最初に投じた1票は、続く細川連立内閣の誕生につながった。
 その秋から始まった政治学のゼミでは、当然この政界再編がテーマとなった。班に分かれて各政党を担当し、ぼくたちは社会党と新党さきがけを調査した。三宅坂の党本部にインタビューに行ったり、兵庫や島根の地方支部にも調査(という名のドライブ)に出かけた。マスコミ報道をもとにしてディスカッションする中で、選挙制度改革の委員会に各紙の幹部が関わることによって、途中から各紙の政治改革への論調が変化したことを発見したりもした。
 このときのキーパーソンは小沢一郎であった。彼がめざす「普通の国」、すなわち成熟した個人を基盤とし、健全な二大政党が政権交代を繰り返しながら、迅速な政治決定を積み重ねていく統治システム像がその背景にあり、小選挙区制の導入はそのための手段であった。
 しかし、この小沢構想は、社会党の離反と村山自社さ連立政権樹立によって頓挫し、新進党は空中分解する。次に小沢は自由党を率いて自民党に接近し、トップダウン型の官邸主導の意思決定を定着させようとするが、自民党は次第にうるさくない公明党の方に軸足を移し、ついに小沢は連立を離れた。
 皮肉なことに、小沢がめざした「党主導の選挙」「トップダウン型意思決定」「官邸主導の政治運営」「小選挙区制による地すべり的勝利を受けた強気の国会運営」という国家像を最初に実現させたのは、宿敵・小泉純一郎であった。彼は、小沢の主張してきた「新自由主義」政策を推し進め、「普通の国」としての自衛隊の海外派遣にも積極的であった。小沢は、さきがけの流れを汲む民主党に合流し、反自民統一戦線がここに完成する。一方で、自民党は小泉以後、混迷を極めることになり、もはやいかなる延命措置も効かない状態に陥った。
 そしてとうとう、自民党は結党以来守ってきた衆議院第一党の地位を追われることになった。
 16年間の長い長い物語である。
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