私の戦後60年・上
東京の品川に石田家の墓が在り墓標の一人に石田豊、そして”石田ふじ”が刻まれている。豊は私の実兄で、ふじは私の生母で有りいずれも昭和20年8月没、当時三才であった私には記憶が無い。
5歳下の弟が20代の若い娘と昨年結婚してこの春に新婚旅行でイタリアの兄を訪ねてきた。彼は新妻を残して私と二人だけでシエーナをドライブした。道中話であったが私たち兄弟にとっては初めての出来事だった。弟は「石田豊が兄ちゃんから話を聞く今日まで誰の子だっか知らなかった」と言って私をおどろかせた。「ふじ」は私の生母名で有りながら私は知らない。写真すら一枚も残っていない。かって、聞いた事によると終戦直前のアメリカの東京大空襲で死んだと言う。更に石田ふじの実家すら分からない。戦後60年にもなるのに戦争の傷跡は私たち兄弟にもその陰を落としているのだ。
今年戦後60年を迎えて私なりに歴史の節目に何かを残さなくては、と考えていた時に友人岡田全弘氏からイタリア・パルチザンの跡を実地見学したい、と連絡を受け、渡りに船、二つ返事で協力を申し出た。
そして事前の準備を含め5月に実現してナポリ、カルピ、トスカーナ地方を案内出来て今さらながら良かったと想っている。
私の為に特別に寄贈して呉れた「イタリア・パルチザン群像」岡田全弘著・現代書館05年5月15日発行を読み終えた。
イタリア・パルチザンについては日本ではいろいろな人が部分、部分として紹介している。しかし、岡田氏はレジスタンス研究所のアウトラインを追って正史に基ずき自分の足で歩き、聞き、そして見て一冊の本にまとめた。日本人としては岡田全弘氏が初めてだと想う。私は多分、岡田氏よりイタリアの各地を知っているだけに改めてと言うより自分が無知で有った事を知らされた。例えば、Pietrasantaにある日系2世の像、Bassano del Grappa「臨終の並木」等毎年仕事で出掛けているのに彼の本によって初めて知った。更に書中にある日系2世軍団442連隊の存在については山崎豊子の小説、確か題名は「二つの祖国」だったと想うがその存在は知っていた。アメリカに在ってはジャップと言われスパイ容疑で強制収容所に入れられ差別され、日本に在ってはアメリカのスパイと言われ、いずれの国からも日本人扱いされ無かった。
岡田氏は繰り返して、日本の戦争反省が不充分で結果として中国や韓国との間に国際紛争を巻き起こし、歴史の事実について"あれは、無かった、、、侵略戦争ではなかった"と言って教科書の書き換えをしたり、日本国の宰相が公私をあいまいしてA級戦犯を合祀する靖国神社を参詣して何が悪いかと開き直る政治指導者、それを許している排他的な日本社会の日本人の姿に警告を発しています。
アメリカのジャーナリスト、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」(岩波書店・2001年発行)を読むと第二次大戦後の日本人は、敗戦の惨状の中を歩み始めた民衆は「平和と民主主義」への希望を抱きしめて、上からの革命に力強く呼応した、、、と言うのだが、実際はアメリカへの属国化と自立して考えて行動できる生命力を失いつつ有るのが日本人の実態ではなかろうか!? 20世紀が極端に熱い戦争と冷戦で人間が絶滅する1歩手前の極端な世紀でした。21世紀はその反省の上に立って岡田氏が紹介しているシリンガールデイ博士「ゆっくりやろうよ」です。
私の言葉に直せば「スローフードでいこうよ」。
スローフードの精神は料理用語だけではなく生活用語でも在り、人間の社会的、歴史的な生態環境全体を指すのです。ぜひ、一人でも多くこの「イタリア・パルチザン群像」岡田全弘著・現代書館(05年5月15日発行)を読んで欲しい。
私の戦後60年・ 下
そして、秋になって東京日野市に住む友人から「女房の退職を記念して夫婦2人でItalia旅行をしたい。旅程の中にパルチザンの歴史博物館を含めて欲しい」と依頼を受けた。Kさんには2年前の春に池上洋通氏一行のツアーでCarpi市を紹介して有ったので今回はアペニーニ山脈の中に在るのMarzabotto を選んだ。私自身はMarzabotto には何回か行っているがその度に マルザボット山上に在るParco Monte Sole には是非とも一度訪ねてみたかった。そんな自分の願望が実現した。
2005年11月19日は朝から快晴、気温は零下2度のFirenzeの街を後に私たち3人はA1高速をボロニャに向けて出発した。Sasso Marconi で高速をお降りてレーノ川を10km遡上(ボローニャ市から25KM遡った)したところに在る新しい村役場Marzabottoに到着。すぐ、IL Ssacrario di Marzabotoの記念記帳に署名し記念館に入って追悼合掌する。土曜日の早朝の為か誰も居なく私たち三人だけだった。参拝後村役場と警察でParco Monte Soleの道を教わり、いよいよ モンテ・ソーレ公園に向う。すぐに川を渡ると道は細くなり一気に高度を上げて30分ほど走ると700メートル近いVia S. Martinoに到着。K夫人(元小学校教諭)は持参した岡田氏の著書「イタリア・パルチザン群像」74ページから始まる「七、マルザボットの大虐殺」を読み上げてくれた。
彼が情熱を持って書き上げた著書は何ににも替えられい格調高い歴史の証言であった。たぶん、この Monte sole に来た日本人は著者と私たちを含めても数少ない貴重な存在であると、認識した。現場は想像を絶する思いだった。なぜ、こんな山の中で悪名高い大虐殺が行なわれてのか。まるで、古代ローマの遺跡を見るような錯覚を覚える幻想に駆られたような廃虚とかした住宅、教会等々信じられない。想像を絶するような熾烈な戦闘が行なわれたのであろう。
S.Martino に在る新しい建物平和の学校では偶然女性の校長先生に出会った。彼女は大変日本人を珍しがっていた。女の校長は私の質問に答えて、この学校は州、県それにボロニャ市の財政的援助を受けて運営されている。と説明が有り市長候補のKさんは感動していた。
岡田氏が残したこの貴重な著書は全ての日本人に送った歴史の証人であり、日本人の良心で在り、イタリアを愛する私の良心でもある。
どんな事が有ってもそれが正義であっても武力で国際紛争を解決する事は許されない。戦争で失った母の顔も知らずに成長した子供たちが戦後60年の節目に三度目の戦争を起さない偉大な想いを誓って山を下りた。
完

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