Dは23歳のお嬢さん
Rは62歳の私
D:さてさて、私が最近考えていることはといえば、
この先どうしよう、ということです。
イタリアの食材をもっと知りたい!と思ったのと、
学生が横並びでいっせいに就職していくシステムに反抗したくて、
私は企業でサラリーマンをすることをやめてしまいました。
そして、レストランで働いているのですが、
これまた人間関係など難しい面もたくさんあります。
サービスがやりたくて働いているわけではない私は、同僚の反感を買ってしまうようです。イタリアのワインのカンティーナや、チーズ工房を回る仕事がしたいと思っていたのですが、それが輸出入の窓口という仕事としてなのか、と考えると疑問符がつきます。
R:何故、レストランを選んだの?
D:はやく自立したいと思っていたはずの私なのに、誰よりも宙ぶらりんに親に頼っている現在です。何をどうしていいのかわからない、というのが私の今の状況です。
R:あなたが自立したい気持ちはよく解ります。ぼくも小さい時から早く自立したいと考えていて17歳の時経済的には自立しました。人は自立して初めて人間の己が始まるのです。
自立すると言う中には二つ有り、経済的自立、生き方/考え方/人生観の自立です。
現代に生きる私たちにとって経済(生活費)の自立は社会生活上避けて通れません。
つまり経済的自立は生き方、考え方の土台になるからです。
事実有史以来一貫して人間の歴史や哲学は此の経済に当たる土台とその上に有る生き方、考え方、モノの見方に対する二つの研究と学問でした。
D:日本の社会とイタリアの社会について、音楽会の記事など面白く読ませていただきました。やはり西洋と東洋には上下関係があるものなのでしょうか。
私はナポリでそれをいやというほど感じました。
仲良くしてくれていても、どこかに「東洋人」というレッテルを貼ってみているところがあると思います。
中国でサーズが流行したとき、私が東洋人だということで、挨拶のバーチョ(キス)を拒否されたこともあります。
でもそういう上下関係があるのは歴史的流れから見ると当然のことなのかもしれないとも思います。
むしろ、その現実を直視して、日本人は自分たちの価値を自覚しなければならないのではないかと思います。
西洋と東洋の違いを直視して、その両方の価値を認めなければこの先へ進めない気がします。
R:その通りですね。それは言葉の構成にも見られます。
男言葉と女言葉がある日本語、イタリア語にはそれが全くない。
モノの見方がイタリアと日本では逆立ちしている。
例えば、日本では何かの設問に対して○又はXで答える習慣があります。
それに対してイタリアでは正しい答えにはX印を付けるだけでしょう、○印はありません。
モノを買った時の釣り銭渡し計算は日本は引き算、イタリアではたし算なのです。
D:Rさんはイタリア暮らしがもう長いですが、
そういう違いは今も意識されますか?
あなたの娘さんは自分の中には日本とイタリアの半分半分のものが流れてるといっていましたが、興味深い言葉でした。
なんだか脈略なくなってしまいましたがメールを送ります。
R:ぼくがイタリア国内に住む限り、ぼくが抱いている普遍的な自己意識あるいは平均的日本人意識は抑制し妥協しなければ成らないと想っています。
それはワイフとの間もそうです。
しかし、娘に対してほとんど抑制と妥協がありません。
だから、「生意気言うな」とすぐ激怒して手を振り上げます。
今気がついた事ですが、どうしてなのか、
多分ぼくの中には儒教的な家父長優先の考え方が染みついているのかもしれません。
つまり、ワイフはイタリア人であり、娘はは半分日本人だから、かもしれません。

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