美しいムラの里山に入ると、かって見かけなかった立て札と出会う。
ムラが変わったのか、ムラをとり巻く環境が変わったのか。
ムラの中では、山の荒廃を嘆く声が、早くから聞こえていたのである。
山の自由 ≠フ崩壊

山の木陰がうすくらいことには慣れているが、小枝に掲げられてある「 入山禁止 」には、思わず足がたちどまる。「山の神」(
ムラの鎮守の神 ) の怒りを感じるからである。 山の自由 ≠ェ失せているからである。
このような立て札に出会うのは不本意である。山の神の怒りに、不本意を唱えるのではなく、ムラのきまりが失せて、 山の自由 ≠ェ崩壊していることが不本意なのである。
古風を引き継いだムラのきまりは内からも崩れている。
ムラは、元々が ムラ ≠ナあったのだが、いつか 部落 ≠ニ変わっている。今日ではそれが 集落 ≠ニか、あるいは町会・町内会・区・区会などの意味不明な用語に置き換えられようとしている。
ムラの取りまとめの勤め役は 惣代 ≠ニして、かたくなに 総代 ≠フ文字を避けていた三郎次父がいた。今は、 惣 ≠フ意味がムラから忘れられている。われ等が口にしてきた ムラ ≠ヘ、地理学用語の転用のような「 集落 」とは意味が違う、単なる人の集合体の「町会」でもない。人と人、家々がつながりを持ったムラなのである。
ムラの用語が変わることは、単に言葉の変化ではなく、そこに込められていた意識が変わってゆくことである。ムラのきまり が支えた 山の自由 ≠フ意識が移ろいでいるのである。
山の自由 ≠ヘ外からも壊されている。外部からムラに入ってくる人たちには、ムラのきまりは通用しないのであろうか。ムラの内側の人たちには、山に立ち入るに、ムラのきまりが崩れたとは云え、その感覚は伝わっている。ムラの山には、自制的な、自律的な気持ちでかかわることを忘れてはいないのである。
山の藪陰に、控えめに掲げられた「 入山禁止 」の立て札は、ムラのきまり を乱す者へのメッセージである。ムラのきまり を理解しない外部からの侵入者にたいする拒絶である。
山の自由 ℃ゥ然との順応
今日では山の所有はおおむね個人所有であるが、一部に入会山・共同山が残されて、山の利用は個人の恣意には許されていない。これが江戸時代にはどうだったのか、三郎次には知識はない。しかしいくつかの史料で推察するなら、江戸時代初期の山は、名(
みょう )持山と唱えて、利用はムラ共同利用が原則だったようである。
中山村野田、江戸時代(1,834年)のムラきめ。
江戸時代中ころには、百姓林などとする個人所有が見えてくるが、ごく一部の有力者だけの、部分的なの所有と理解される。この他に「 かって次第 」などの表現も見えるが、この勝手にムラのルールが課せられている。これらが今日のような個人所有に広まるのは、いつころ、どのような経緯があったのか分からないが、一つには明治五年の、明治政府による土地制度の改正が大きく働いたと思われる。それまでの慣行的に成立していた山利用に、個人的な所有権利が大きく前面に出たと考えられる。
しかし、ムラが山にかかわる意識の根底には、江戸時代初期の 名持山 ≠ニしてのムラ中意識が残されていた。 名持山 ≠ヘ中世からの感覚である。ムラが成立のときから引き継いできた、ムラの基本感覚であるから、それは時代の変化の中でも容易に解消しない感覚である。それがムラ中で支えた 山の自由 ≠フ意識である。
山が個人的に誰のものでもなく、ムラの共同のものであることは、ムラの構成者に平等の立場が前提となる。山が神の山であるから、その恩恵はムラの構成者に平等な意味をもつと考えられていた。
十二大明神を奉じ、木の神・久々能智神を祀るムラの鎮守神が、ムラの山だったのである。 山の自由 ≠ヘ、ムラの鎮守神崇尊によるその霊威によるものであったと、三郎次の理解になる。
( ムラの鎮守さま )
神の山を荒らさない、神の山を穢さない。現代の思想である環境保護・保全、自然との共生などとは異なった、自然とのかかわりの理念を、ムラは引き継いでいるのであった。それは、野山の自然に順応した暮らしの再生をはかりつづけることであった。

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