しばらく更新書込みが絶えていました。
三郎次の別ブログは折々の書込みがあるので、お盆の月の、ムラに寄せる想いを、並行書込みします。
お盆の日は、60余年前の、日本の敗戦の記憶が甦る日です。
お盆の日に、
川口の宝積寺さまの境内を訪れた。
この境内に面して、川口町の
戦没者の慰霊碑が建立されていたのだが、一昨年の地震で倒壊したのである。
( 地震による崩壊前の戦没者慰霊碑 )
終戦記念の日のお盆に訪れたら 立派に再建されていた。
三郎次は、戦没者と直接の関係はないのだが、子どもの日に 過ぎた大戦の記憶をもつ者として、この慰霊碑のことは忘れていない。
( 新たに再建された 慰霊碑 )
左右二枚の碑板に刻まれている戦没者のお名前を追ってゆくと、憶えのある人の名前に触れることになる。
どこそこの家のだれそれがと、戦死者を悼む会話が 当時のムラの中にあった。小学3年だったのに、そのときのムラの雰囲気は深く三郎次の記憶に残っている。
← 戦没者の刻名 ( 写真はクリックで拡大 )
中山の野田部落は33戸、ここに9名の方が刻名されていた。
出征する若者は、薬師さまの前で お別れの挨拶をしてして、ムラの衆に送られて出発する光景は脳裏にあるのだが、ここに刻名された人たちの面影は もう思い浮かべることが出来なくなっている。
三郎次は、ムラのこと稲のことなどで
ムラの先輩たちから多くを学んできた。十歳ほど年上の その人たちには、さらにその先輩となる多くの人々がいたのだが、 戦場から帰って来なかったのである。
受け継ぐべきムラの知識・知恵がそこで途切れてしまっていないのかと、三郎次の無念を 慰霊碑の前で語ってきた。それが 戦没者への哀悼の気持ちなのである。
戦争で多くの生命を失わねばならなかった
沖縄で、象徴的に語られる「
ぬちど たから 」(
命こそ宝 ) と云う言葉がある。
単純に、命が大切とするだけの意味でなく、生命は受け継ぎ 引き渡すものとしての大切を 理解しての言葉である。
稲コメは 迎える春ごとに芽の出のくりかえしで、生命の連続することの象徴として、日本人の考え方のなかに据えられて来た。人の生きようもまた ひき継がれるものである。
慰霊碑に刻名されている人たちの
命と、ものおもい を、今日の我われはどのように引きつぐことが出来たのであろうか。

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